人は無知によって迷うことはない (1999.11)
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯 (正信偈)
十一月一日から道路交通法が改正され、運転中の携帯電話の使用が禁止されました。 しかし今回の甘い法規制ではこれによって運転中に携帯を切る人がどれだけいるかは疑問です。事故を起こして初めて携帯電話使用が問われるそうですが、誰だって自分だけは事故は起こさないと思っているわけですし。実際、私の見ている範囲でも携帯電話を片手に談笑しながら運転している人は決して減ってはいません。
運転中の電話使用を止めさせるのはまだ時間がかかるでしょう。みんな運転中の携帯電話使用の便利さを知ってしまったし、さらには何より、「自分は今まで無事故だった」と言えるだけの十分な『経験』を手に入れてしまったのだから。
『経験』という罠
私たちが日頃手にしているものの中で、扱いを最も注意しなければないないものの代表がこの『経験』というやつのような気がします。
今年の九月三十日、東海村で起きた臨界事故。事実が知らされるにつれ、事故前の状況も事故自体の内容も、事故後の従業員や近隣住民への対応も、マスコミへの発表も、何から何までメチャクチャだったことには怒りを通り越すものがあります。が、その中でやはり第一に糾弾されるべきは作業のあまりの杜撰さ、しかもそれを会社が指導していたことです。
専門家の誰もが言葉を失った「バケツ製の裸の原子炉」は、JCOという会社や現場の作業員の『無知』によって発生したと指摘されていますが、それは少し違うでしょう。彼らは『充分に知っていた』のです。手抜き作業が通用することを。五年以上の貴重な『経験』の積み重ねによって。いつもやっていることだから安全、との経験に頼っていった結果が大事故を引き起こしたのでした。
天気の方が間違っている!
もう一つ、まだ記憶に新しいところではこの八月十四日、激流に抗って立ち、救助を待ちながら力尽きて流されていったキャンプの一団を思い出します。
事故後の反応では彼らの川への無知を責め、嘲う声ばかりが聞こえました。もちろん中洲にテントを張ること自体が非常識なのに加えて、再三の避難勧告も無視した態度には同情の余地はないでしょう。子ども連れならなおさら慎重な行動が求められてしかるべきです。
ではなぜ彼らがあの中洲をキャンプ地として選び、避難勧告のサイレンも無視できたのか。それは彼らが何年も前から同じ場所でキャンプをし、かつてダムの放水のサイレンが鳴っても何事もなかったという彼らの『経験』があったからこそだったに違いありません。キャンパーの水難事故も、先の臨界事故も自分自身の「豊富」で「確か」な『経験』への妄信が、呼び起こしたと言っても間違いではないでしょう。
気象庁の職員にこんな話が語り継がれているそうです。
ある気象予報官が明日の天気を「一日中快晴」と予報しました。ところが翌日になってみると昼過ぎからひどい土砂降り。予報官は改めて昨日の天気図を出してじっくり眺めてからこう呟きました。「この天気図によると、今日は絶対に雨は降らない。だから、降っている雨が間違っているんだ!」
ひろさちや氏が紹介していた笑い話なのですが・・・決して笑えない当節です。
拠り所はなんですか
親鸞聖人は人間を凝視して、お馴染みの正信偈の中に次のように示しています。
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
『現実を生きる願に促されたかの方々と、ともにまた、生きて往かん。この言葉こそは、いのちそのものの願い。わが経験・能力・分別を拠り所として、自分の生涯を自分で価値付けようとする我らには、いのちそのものを願いとして生きて往く根拠としていくことは、甚だ困難なことである。これ以上困難なことはないということで、不可能とも言えることだ。それほどまでに我々は自分を根拠にしているのだ。(大竹 功 訳)』
ここでの「邪見」、よこしまな見方・考えとは、ひねくれたものの見方をすることではありません。自分の経験・能力・分別を無意識のうちに絶対の拠り所としてものを見ること自体が偏っており、邪見だというのです。それはやがて自分や他者のいのちを自分で価値付けることとなり、自他のいのちにかけられた願いを聞いていくことなど、この上なく困難なこととなるのは必然です。
「人は無知によって迷うことはない。人は『自分は知っている』という思いによって迷うのだ」と喝破した先輩がいます。
無自覚に固執している自信や頼りにしている自分の経験は、実はただの「思い込み」でしかないのではないか。その危うさへの自覚を持てるか否かで、経験を本当に経験として生かせるかどうかが決まってくるのでしょう。そしてそれは、先人が経験の集積として遺してきたものを尊重することにも繋がっていきます。思えば、現代は『経験』があまりにも軽んじられているのではないでしょうか。
思い込みという囚われを離れることは甚だ困難と親鸞聖人は指摘されました。しかし困難の存在を知らされることは困難に呑まれない第一の道です。そしてそれを知らしめてくださるものは拠り所としてはるかに確かなものに違いありません。■
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