カリスマになりたい? (1999.9)


念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面面の御はからひなり (歎異抄)

 テレビ番組『料理の鉄人』がこの九月いっぱいで終了します。
 料理店の厨房奥に隠れ皿の上だけで自己主張していた料理人たち自身を華やかな(というより大げさな)舞台に引き上げて、彼らの卓越した技能と発想を楽しむというコンセプトは、個性豊かな「鉄人」と名だたる名店のシェフの登場によって第一級の娯楽番組となりました。しかし番組が長く続けば駒不足はいかんともしがたく、緊張感もどうしても薄れます。番組終了は致し方ないところでしょう。
 『料理の鉄人』の最盛期には、たしか中学生が将来なりたい職業の第一位にシェフ・調理人が挙げられたことがありました。確かな技能と見た目の華やかさに彼らが憧れたのは十分理解できるところですが、それが今、調理人に代わって中学生が将来なりたい職業の第一位は美容師だそうで。そう、彼らが目指すのは例の「カリスマ」です。
 昨年あたりから誰が呼び出したのか「カリスマ美容師」。現在最も注目を浴びている芸能人のカットを担当し、ファッション誌はもとより一般誌でもたびたび取り上げられ、彼らにカットを頼むのは至難の技。一ヶ月の予約が数分で埋まってしまうというその人気から、かつて「鉄人」という呼び名が一人歩きして「○○の鉄人」という呼称が氾濫したように、近頃はやたらと「カリスマ○○」が目に付きます。カリスマDJ、カリスマ店員あたりはまだいいとして、カリスマOLって何だ?

仏教にカリスマなし

 平たく言うと「超人気」くらいの意味で使われている「カリスマ」という言葉は、新明解国語辞典で引いてみるとこうあります。
カリスマ【charisma 神の賜物。超能力。ギリシャ語に由来】
接する人に超人的・神秘的な力を感じさせたり教祖的な力を感じさせたり教祖的な指導力を発揮したりする能力(を備えた人)「 的支配・ 性」
「超人的」「神秘的」「教祖的」・・・つまり「カリスマ」はある種宗教的、と言っていいかもしれません。
 が、かつて「『美的』なものほど『美』から遠いものはない」と言ったのは青山二郎でしたが、それにならって言えば、宗教「的」なものほど宗教から遠いものはありません。
 たとえば、私たちが一番親しくしているお釈迦さまはカリスマだったでしょうか。あるいは親鸞聖人はカリスマだったでしょうか。
 結論を先に言えば、親鸞聖人も、そしてお釈迦さまもカリスマからは非常に遠い方でした。むしろ全く逆に、カリスマをどこまでも否定していくのがお釈迦さまが説き親鸞聖人が頷いていった仏教という宗教だったのです。

御同朋として

 京都で晩年を過ごしていた親鸞聖人を、はるばる関東からお弟子たちが殆ど命がけで訪ねてきたことがありました。関東の地では親鸞聖人が去ったあと、「私こそは親鸞聖人から秘伝の法を伝えられた」と言い、世に広まっている念仏はすでに「萎める花」だと喧伝する者があらわれて勢力を伸ばしていました。聖人に教えを聞いていた人々は混乱し、なんとか聖人に直接お会いして本当の事を聞きたいとやってきたのでした。
 事情を聞いた聖人はこう答えます。
「どんな修行も学問も成し遂げることのできないこの身に届いて下さったのは、皆さんと共に聞いてきた念仏の教え以外には何もありません」そして、「お念仏が開いてくださる道理に頷いていくのか、打ち捨てるのか、それは皆さんの判断されることです」

人に依るな、法に依れ

 「秘伝の真実」を振りかざすカリスマもどきに動揺して親鸞聖人に救いを求めた人々は、聖人こそ真の「カリスマ」であってほしかったのでしょう。それに対し、皆さんは勘違いをしていると聖人はお諭しになりました。私はあなたと共にお念仏を聞いているだけの行者なのですよ、と。
 ある意味で非常に厳しいこの言葉を言い換えれば、何者かに独占・私有を許すような教えは真実ではありえない、ということでしょう。そこにカリスマの登場する余地はありません。
 その態度はお釈迦さまもまったく同様にとっていらっしゃいます。お釈迦さまは最晩年、病の床でお弟子に語っています。「私は内外の別なく法を説いた。悟った人の教えには『教師の握り拳』はない。私が亡き後は自己と法を灯明とせよ」。
 「握り拳」とは自分だけの秘伝ということでしょう。世の道理を包み隠さず説いた「私」を崇拝するのではなく、道理自体と対峙して実践していくことを大切にしてほしい、とお釈迦さまは遺言のようにおっしゃったのでした。
 「カリスマ○○」もまもなく「鉄人」と同じく飽きられ、打ち捨てられることでしょう。どうも、何かを崇めることは、それを消費することとイコールのようです。そこには、技術への尊敬も真実への畏敬も見受けられません。■

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