他者と生きるということ (1999.5)
君を思ふはわれを思ふなり。(蓮如上人御一代記聞書)
 『五体不満足』。去年の十月に発行されてから半年になるのに、まだ書店での売上ベストテンに書名があげられる大ロングセラーとなりました。
 この本で著者乙武洋匡氏はヘレンケラーのこんな言葉を紹介しています。
「障害は不便です。でも不幸ではありません」
 この言葉で思い出した映画があります。『典子は、今』。サリドマイド禍により両手が失われた典子という実在の少女が日常生活のほぼすべてをこなしながら明るく生きている姿を本人自身が演じて映画化したもので、公開当時(一九八一年)は大変な話題になりました。たしかこの映画の影響で、肢体障害者に運転免許取得の門戸が開かれたと記憶しています。その映画の主題が同じ「障害は不便ではあるが不幸ではない」でした。
 映画が話題になりながらもその主題が世間に根づかなかったことは、それから二〇年後に『五体不満足』が新鮮に受けとられていることからも明らかです。

「不便」を見落さないで

 しかし「障害は不便だが不幸ではない」という言葉は、ポジティブなゆえに注意が必要な気がします。この言葉を障害者に言われた時、健常者側は心地よい感銘を受けつつすぐにその場を立ち去ることが出来ます。障害者が強く生きている、これからもガンバッテね、くらいの一言を添えるかもしれません。
 では、先の言葉をこう言い換えてはいかがでしょう。
 「障害は不幸ではない。でも、不便だ」
 彼らに不便さを強いている要因の多くは社会環境にあって、それは多数者である健常者が作り、容認しているものです。なのにその改善を目指す方向に意識が向うのではなく、障害を乗り越えている方たちの強さに感動して気持ちのいい涙を流しただけでやりすごしてしまうことがあったとしたら、それは障害者にとっても健常者にとっても極めて「不幸」な状態に違いありません。

関係が欲しい

 『五体不満足』は語り口が爽やかなために、私たちが問われていることを見落してしまいがちのようにも思えます。そこで少々辛口で、しかも『五体〜』に劣らず面白い本をご紹介しましょう。『無敵のハンディキャップ〜障害者がプロレスラーになった日〜』(北島行徳著、文藝春秋刊)。副題にもある通り、障害者プロレスに関わった人々を描いたノンフィクションです。
 脳性麻痺の慎太郎は参加している演劇活動に大きな不満を持っていました。
「・・・ぼくは、うたがへたなのも、しばいがへたなのも、じぶんでは、わかっては、いるのですね。でも、おきゃくさんは、はくしゅをくれます。なにか、どうじょうの、はくしゅみたいで、いやなのですね」
 障害者を取り巻く「善意」のいごこちの悪さにいらだつ中で、ひょんなことから彼らは障害者として客の前でプロレスをするという道を発見するのでした。どう反応してよいのか戸惑っていた観客が、次第に試合に熱中し、ある場面ではレスラーを罵倒さえする。それはリングを介しての「正直な関係」の成立でした。
 筆者北島氏はボランティアの健常者として彼らと関わるうちに、「健常者対障害者」という企画で自らリングに上るはめになって・・・。
 障害が増幅する、生きる上でのじたばた。笑ってしまうしかありません。
「障害者と健常者は同じ人間っていう言い方はさ、確かにすごく正しいことのように聞こえるよ。でも、障害者がそう発言することで、一番喜ぶのは健常者だってことわかっているのか。健常者の方からすれば、同じ人間って言葉は免罪符みたいなもんなんだよ。同じと言うことで、障害者について考えることをやめているのが現状なんだよ。本当は同じでないという事実から、目を背けているんだよ」

模範解答などない。だから

 以下は同書の最後の一文です。少々長く引用することをご容赦ください。
「人間は一人である。親や兄弟、友達や恋人、どんなに親しい人のことだって完全に理解することなんかできない。では、他人の存在は、まるで意味がないのだろうか。
 そんなことはない。
 手を伸ばしたらするりと逃げる風船のように、叩いても叩いても開かない鉄の扉のように、他人の心は思うようにならない。けれども、離れているから繋がろうとし、わからないから知ろうとする。人と人との関係はぶつかり合いの繰り返しで、理解できないからこそ面白いのだ。
 障害者と健常者の関係も同じである。
 障害者の気持ちになって、と健常者が言ったところで、本当のところはわかるわけがない。わかるというのは、健常者の傲慢だ。周囲に保護されて生きていながら、健常者は理解してくれないと嘆く障害者がいる。それは甘えだ。障害者と健常者はもちろん、障害者同士でも感情的なもつれは常につきまとう。しかし、人と人との間には、いろいろとあって当然なのだ。むしろ問題なのは、ぶつかり合うことを放棄して生きることではないか。
 障害者と健常者の理想的な関係という問題に、模範解答などあるわけがない。だからこそ答えを探して模索し続けるのだ。何度か飛び上がっていれば、いつか風船を掴むことができるかもしれない。血が出るまで拳で叩けば、重い扉が向こうから開いてくるかもしれない。それが、私たちが障害者プロレスをこれからも続けていく理由であり、観客に伝えていきたいことでもあるのだ。」 ■

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