「受容」という力(1999.3)
広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、
世間を利益して安楽ならしめんと。(教行信証)
この二月の上旬、タイに行ってきました。私が関わっているアーユスという国際協力の団体の主催で、タイのエイズ事情を学びながら、エイズの患者さんたちとの交流会に参加するスタディーツアーです。
うつすのは、こちら
今回のスタディーツアーに先だってエイズのレクチャーを受ける中で、こういう注意を受けました。
「エイズ患者は免疫機能が非常に低下するために、特に末期になると皮膚病を患うケースが多くなり、見た目にも悲惨な様子がエイズへの差別を助長してきました。しかし、エイズは非常に感染力の弱い病気です。むしろ、感染していない私たちの方が、感染者に病気をうつしてしまう可能性の方が遥かに高いのです。ツアー中の健康管理はくれぐれも気を付けてください」
まさに目から鱗。私はエイズがめったにうつらない病気だということは知っていましたが、感染者にとっては自分の方が脅威の存在となりうることにまでは気が回らなかった。エイズに限らず、病気というとうつされる心配ばかりに気が向きがちですが、人が生きるということは関係しあうことという当たり前のことをエイズという病気は厳しく思い起こさせてくれました(もちろんそのことが、逆の意味で関係を持つことを躊躇させることがあってはいけないのは言うまでもありません)。
差別が、拡める
タイではこの十年間に十万人の人がエイズに感染し、すでにその三分の一の方が亡くなっています。しかも、この数字は表に出ている数字であり、実際はその数倍に及ぶであろうことが予想されています。
では、なぜタイに於てこれほどエイズ患者が多くなったのでしょうか。それは第一に、感染が広まった八十年代後期がちょうどタイ政府が観光に力を入れていた時期と重なり、ネガティブな情報は観光の妨げになるとして隠されてしまったこと。第二に、その後エイズの蔓延を深刻に受け止めたタイ政府は、一転してエイズ予防キャンペーンを展開したのですが、その方法がエイズの恐怖を徒に煽るものであったため、エイズ患者への差別意識が高まり、それが逆にエイズを地下に潜らせて感染を広める一因となってしまったことによると見られます。
適切な情報の流通を止めることは必然的に誤った情報の爆発的な流布を誘い、さらに事態を悪化させる。この状況はつい最近日本でも所沢ダイオキシン報道で見られたばかりのことです。
また、現在、エイズ治療には有効な薬が開発されつつありますが、いずれも非常に高価なため、タイの一般人は対症療法しか受けられないのが現状です。
経済で取捨されるいのち。エイズはいのちや人権の問題を端的に照射します。アーユスが現在エイズプロジェクトに取り組んでいるのも、それらがまさに仏教の課題そのものと重なるからに外なりません。
Living With AIDS
今回、始めに訪問したのは東北タイ、アムナチャラン県の県立病院。ここでは、エイズに感染した母親を対象に、感染者相互によるグループカウンセリングやネットワーク作りなど、感染者が力強く生きていくための集いを実施しています。
私たちはこの集いに参加した後、感染者の一人が住む村に向かいました。地域共同体ではエイズに対する差別意識や偏見はまだ根強いものがあります。しかしそれらの忌避行動が逆にエイズを拡めてしまったという反省から、タイは今、感染者と地域のリーダーが協力しながら、エイズ感染者をきちんと受け入れて共に暮らしていく地域づくりを目指しています。私たちは今後、その村の人たちの活動を応援していきたいと思っています。
人間性回復の場所
そして私たちが訪れたもう一つの柱が、バンコク近郊のロップブリにあるプラバートナーンプ寺。最近NHKの番組『ブッダ大いなる旅路』や雑誌『大法輪』でも紹介され、日本でも知られるようになった所謂エイズホスピス寺院です。実は私は六年前、エイズ患者の受け入れを始めたばかりのこの寺を訪ねています。そのときは病棟とは名ばかりの、事務所のような建物のベッドで七〜八人ほどの患者さんが死までの時間を過ごしていたのですが、現在では末期の患者が常に五十人前後、そしてボランティアを兼ねる感染者が数十名ここで暮らす、小さな村のようにまでになっています。
この寺はエイズの治療はしません。死を目前にした人が、安らかに充実した時を過ごすための安息地なのです。ここで働く人たちがみせる受容のまなざしは、確かに死の恐怖を克服させる力を湛えているようです。
今回訪れた私たちが日本の仏教僧侶ということを知ると、ぜひ皆のために法要をしてほしいという要望があり、病棟で読経をしました。数日後には必ず亡くなるであろう方が合掌して私たちの読経に聞き入る姿に接しながら、この寺の住職のアロンコット師が言う、患者や感染者の意思や精神を尊重することによる人間性回復の中に仏教の本来的役割を見る、ということを日本で実現する方途を考えざるをえませんでした。
■
|