法名 (1998.12)
わが弥陀は名をもつて物を接したまふ。
ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に
億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。 (教行信証)
去る十月二八日、NHK総合テレビ『クローズアップ現代』で、『戒名の値段』という番組が放送されました。聞くところによると視聴率は十五%を記録し、放送後の反響も近来なく多数寄せられたとのこと。反響の中身はと言えば僧侶からは戒名(法名)の意味や役割について全く説明がされなかったこと、そして特に地方の住職からは東京の特殊状況を一般的なこととして扱ったことへの抗議。それに対して一般視聴者からは、よくやった、もっと具体的な事例や金額を示して欲しい、という声が多かったそうです。その声を後ろ盾に続編も検討中とか。
「つきあい」忌避か喪失か
番組の中では、あらゆる宗派の僧侶を抱えた葬式専門の寺院が紹介されます。そこにはお布施などという概念は存在せず規定の料金があるだけ。その寺(?)の利用者はインタビューに応えて「料金が明瞭だし、後の寺との面倒なつきあいも要求されないので非常に有難い」。
その方が過去にどんな面倒なつきあいを実際に要求されたのか聞いてみたいところです(そういう「情報」に踊らされている人が多いように思うのです)が、つまり、この番組のテーマは戒名料・布施が高いか安いかではなく、仏教寺院への不信感であったわけですね。それがどれだけ根拠のあるものかは別にして。
なんで名前変える?
あの番組が企画された背景に通じるところがあるのでしょうが、最近、「法名は付けなくてはいけないのでしょうか」と質問されることがめずらしくありません。それには私はこう答えます。「受け(法名は「付ける」より「受ける」の方がしっくりきます)なくてはいけないものではありません。が、私としてはぜひお受け頂きたい」。
先の質問には、法名料の心配というよりも、死後に名前を変えることの違和感や自分の名前への愛着があると思われます。しかし法名を受けることは改名することではありません。
ではそもそも「法名」(ご存じでしょうが、浄土真宗には「戒名」は存在しません。「戒」自体がありませんので)とは何でしょう。「死んだ人につける名前」ではありません。
法名には、大きく二つの意味(と言うより、働き)があります。
まず第一に、「法のもとにある者の名前」「法を拠り所として生きる者の名前」です。ここでの法とはもちろん仏教。そういう意味では、キリスト教のクリスチャンネームにならって「ブディストネーム」と呼ぶ方もあります。
法そのものである、名前
そして第二、実はこちらが重要なのですが、「法そのものとしての名前」です。
法名は例外なく、経典の文言など仏教の教えそのものから引用されます。名前自体が法として、まことの道理を指し示す働きをしているのが法名なのです。
つまり、帰敬式により法名を受けた方は、それ以後、自分の法名を拠り所としてそれからの人生を歩んで行くという道が恵まれます。さらに、亡くなってから法名をお受けになった方の場合も、その法名は、残された方々を導く光となり、それは同時に、亡き方を仏=私たちを慈しみ導いてくださる方として手を合わせていく日が開かれていくことを意味するのです。
法名は亡き方のありし姿を偲ぶための名前では全くありません。亡き方が仏となって、今もこれからも私たちと共にあることを、法名は具体的な一つの言葉となって示しているのです。
下に、法名についてよく聞かれるお布施や字数について QアンドAにしてみました。尚、文中の本派とは浄土真宗本願寺派のことです。
法名は高額?
延立寺では法名料は頂いていません。本派では、正式には本山(京都西本願寺)にてご門主よりお受けするのが本来で、これを帰敬式と言い、原則として一日二回、一年中執行されます。受式の際は冥加料として一万円(未成年者は五千円)納めていただいています。私たち一般寺院はその代理を務めているわけですから、法名料というものも設けていません。
布施をはずむほど、字数が多い?
現在、本派では「釋○○」というただの三文字のみを法名としています。信士信女居士大師などの位号(等級)もありません。
院号が付く場合はあるでしょう?
院号とは、寺に寄付などをした人のうち、希望者に贈られる記念品です。本山では、二十万円以上の懇志をお納め頂いた方に対し額に応じてお礼の記念品を数種用意していますが、その一つが院号です。法名の上に載せられるために法名と一体化しているように思われていますが、両者は全く別物。院号を受けるかどうかは趣味の範疇です。私自身には受ける趣味はありませんが。
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