談合しよう(1998.6)


一句一言を聴聞するとも、
ただ得手に法を聞くなり。
ただよくきき、心中のとほりを
同行にあひ談合すべきことなりと云云。

(蓮如上人御一代記聞書)

 ある小学校の音楽の先生からこんな話を聞きました。
 新学期の最初の授業で合唱の指導をしたところ、指揮をする先生の前で、生徒がみんなニコニコと、実にいい表情で歌うのでした。歌うことが心から楽しいと表現するように。技術的にはけっして上手とは言えませんでしたが、活き活きとした喜びが伝わってきます。
 その先生は非常に感激しました。ああ、なんてステキな合唱なんだろう、さぞや、これまで素晴らしい指導を受けてきたに違いない、と生徒に尋ねたところ、生徒たちはちょっと神妙になって、こう答えたのです。
「私たちいままで合唱の指導なんて受けたことはありません。さっきは先生の指揮をする様子があんまりおかしかったので笑いを堪えられなかったんです。ごめんなさい」
 先生は呆気にとられ、やがて生徒と一緒に大笑いになりました。音楽に夢中になって、全身で踊るように指揮をした先生の姿が、合唱の指導を初めて受ける生徒たちにとっては滑稽に映ったのでしょう。
 その笑いは、先生を馬鹿にしたものだったことは間違いないかもしれません。しかしそれはまた、滑稽なまでに音楽を愛する先生への、敬慕の意そのものの表現であったことも確かなことです。だからこそ、笑顔とともに発せられた生徒たちの歌声は、活き活きとした波動となって指揮をする先生を感動させることとなったのです。全く思いがけない、出会いのひとときでした。

勤勉という美名に隠されたもの

 今度はあるお坊さんの話。
 インドに行って、現地の人と「ウサギと亀」の話をしたところ、彼らは誰もが「あの話の趣旨は、こういう亀になってはいけない、ということだよね」と理解していたというのです。「だって、ウサギと亀はいっしょにゲームとして競争をしていたんだろ。だったらその片方が途中で寝ていたら、どうして起こしてあげないんだろう。ひょっとしたら気分が悪くて倒れていたかもしれないじゃないか。それを横目で放っておいた亀のような人間にはなっちゃいけないよね」
 「ウサギと亀」の物語を、コツコツと地道な道を歩むことの尊さを讃えた素晴らしい話だと微塵も疑うことのなかったそのお坊さんは、深く考えさせられたそうです。勤勉を讃えながら、もしそれが勝利に結びつかなかったら、それでも私はその勤勉を尊いと言っただろうか、私は勝利という結果によってのみ、地道な過程を評価していたのではないか、と。
 インド人たちとの出会いは、私の思い込みを砕き、確実に私を豊かにしてくれることを実感した体験だったそうです。
 
他者との出会いで開かれる

 各々の思い違いが、かえって思わぬ関係の深さを生み出すことがあります。しかしそのためには、思い違いの在処を互いに確かめることが必須でありましょう。
 蓮如上人は、得手に法を聞く、自分勝手な物事の受け取り方をしがちな私たちであることを繰り返し教えてくださいます。そしてそれを点検するには、自ら省みるよりも、互いに確かめあうことが大事ですよ、とお諭しです。
 私たちは毎日の生活において、しばしば自分の理解を絶対化しがちです。のみならず、理解できないものは理解できるように(得手に)加工してしまったりもします。しかしそうやって自分専用に変形したものからは何の出会いも生れることはありません。
 深く談合し、異質なものとの出会いを重ねることで開かれる世界があります。それは同時に、自分自身との出会いの体験に他なりません。☆

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