「他力本願」という立脚地(1997.12)

仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、
諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。
常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、
このゆゑにすみやかなることを得る三つの証なり。
これをもつて他力を推するに増上縁とす。
しからざることを得んやと。
(教行信証)


 やはりいろいろあった一九九七年ですが、まず笑えた話題と言えば、なんといってもワールドカップアジア予選。大会の盛り上がりということから言えば、これ以上いったい何を望めというのでしょう。何度も絶望的、道は絶たれたと言われ監督交替までになりながらイラン戦までたどりつき、逆転されながらも同点、延長戦でVゴール!テレビドラマだったら出来すぎだって酷評されるぞ。

スポーツが、超えた

 また、次回ワールドカップの日韓共同開催への伏線という点から見れば、韓国がまず代表権を獲得することで、一緒にフランスへ行こう、と、韓国人が日本を極めて自然に応援する形が生れました。それは大げさでなく、戦後五十年たって初のことに違いありません。
 知日家の金大中政権の誕生により、韓国での日本文化の(公の)解禁が近いと言われる今日。日韓相互の理解・交流のレベルが上がろうとしているときに、今回のワールドカップ予選は強力にその先便をつけてくれたようです。人が流す汗の説得力は、やはり半端じゃない。

他力本願は「態度」じゃない

 ところで、ワールドカップアジア予選で、日本代表がウズベキスタンにまさかの引き分けとなったとき、そして背水の陣で臨んだホームでのUAE戦も引き分けたとき、スポーツ新聞には連日こういう見出しが踊りました。
「日本代表、自力出場の可能性消える!他力本願の結果待ち」
 新聞社や記者によっては“他力本願”と括弧つきにしたり、他力本願的、というように「的」をつけてはいるものの、人まかせの情けない状態、という意味でそのまま使っている例が圧倒的でした。
 それほど「自力」がお好きな人たちなのに、イラン戦に勝って本選出場を決めた後のインタビューでは誰もが揃って、「皆さんのおかげです」なんだそうで。こら、他力本願が嫌なら「みんな俺の努力と才能のたまものです」って言ってみんかい、岡田監督!
 というのは冗談として、「他力本願」は「他人まかせ」という意味ではないのはもちろん、「皆さんのおかげ」という意味とも異なります。
 「他力」は弥陀力。あらゆる人を目覚めさせようという、阿弥陀さまの働きのことですね。また、「本願」は誰をも目覚めさせずにはおかないという阿弥陀さまの誓いです。ですから同じ意味の「他力」と「本願」が重なって、私たちにかけられている心の深さを示したのが「他力本願」という言葉なのです。

経過までもが尊い

 世間に、「人事を尽して天命を待つ」という言葉があります。ここからは、結果を出すために自分は相応の努力をしたんだ、という自負が感じられます。その反面で、自分はガンバッたんだ、やるだけのことはやったんだと自分で自分を(無理に?)納得させようという心向きも感じさせます。「天命」は裏切ることはあるまい、という甘い目論見もうかがえます。
 しかし、どれもこれも、待っていた天命(結果)が期待通りでなかったら、尽した人事は何の意味もなかったことになってしまいます。
 それに対して、大谷大学の初代学長を勤められた清沢満之という方は、念仏者は「天命に安んじて人事を尽す」のだ、とおっしゃっていました。期待する結果や目的を得る手段として人事を尽くすのではなく、人事を尽くしたり努力すること自体を喜ぶことができるのが念仏の「利益」だというのです。ここで「天命」は、安易に頼りとする対象から、安易に流れたがる私の有り様を静かに確かに照らし出す「働き」へと転換しています。それは先の「他力」「本願」と同義と言っていいでしょう。

しなやかに、強靭に

 私たちに常にまとわりつく様々な不安はそれぞれの態を表しています。しかしそれらの根底に多く共通しているのは、そこに意味があるかどうかの不安ではないでしょうか。思わしい成果を出せなかったら今の行動は意味がないんじゃないか、無駄な回り道をしているのではないか・・・。
 結果がどうであれ、どの時点をとっても確かな意味があったんだと知らしめてくださる力、どの瞬間をも愛情をもって受け止められる私に育ててくださる力を先達は「他力」と呼んできました。それは、私たちが「出す」力ではありません。他力は「出す」力ではなく、「出る」力。無理のない力です。しなやかで、強靭。他力本願を立脚地とされた親鸞聖人の歩みは、まさにそのようなものであったことが思い起こされます。 ■

法話のようなものINDEX

HOME