アンダーグラウンド(1997.6)
願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。(教行信証)
共同通信の記者であり、芥川賞作家でもある辺見庸氏は、二年前の地下鉄サリン事件の朝、神谷町駅を通りかかりました。ホームに降りる階段に、うずくまってる人が数人います。街行く人は誰も気に留めることはありません。そこへまた駅員がぐったりとした人を抱えるように階段をあがってきます。何かあったのですか、と聞くと、「なんだか、今日は具合の悪くなる人が多いですね」とのこと。緊迫感はまったくありません。
「異常」でなく、「奇妙」
不審に思いながら改札口に進んだ辺見氏が見た光景。それを氏は、とても「奇妙」だったと表現します。
駅構内に、手足を投げ出してぐったりと横たわる人々。そして、その手足をまたぎながら、まったく普段の日常そのままに改札口を抜けていく大多数の群衆。辺見氏は倒れている人々を運び出そうとホームへ出ようとすると、自動改札機に阻まれます。駅員は「お客さん、切符を買ってください」。日常と非日常のまぬけで見事な同居。
そうこうしているうちに、警察が到着し、駅入口にロープが張られます。ロープの外では現場を全く見てもいない記者たちが、「恐怖と混乱の極でパニックにある現場」の様子を興奮気味に発信しています。そのレポートからは、辺見氏が体験した「奇妙」なニュアンスはまるで受け取ることができません。
眼の前の突発的事態に心を留めることをしない群衆。一方では事態を、怒りと恐怖を誘う分かりやすい「異常な事件」に加工するマスコミ。そして被害者は、「四千人」との数字の中で個々の顔は消されていきました。
圧倒的な「日常」
地下鉄サリン事件の被害者の証言を集めた村上春樹氏の新著『アンダーグラウンド』では、あの朝、辺見庸氏が見た「奇妙な」光景が、その被害当事者の言によって再現されています。
「道路のこっち側半分は本当に地獄のような光景だった。それなのに道路のあっち側半分は、何事もなくいつもどおり職場に通勤していく人々の世界なんです」
「(電車の中で、なにか変ですね、とか言ってくる人は)まったくいません。何も言わない。コミュニケーションなんて皆無です」
「どうしてあのときに俺は危機感を持たなかったんだろうと。でも実際の話、持たなかった。まわりのほかの人たちもみんなそうでしたよ」
「私がいた小伝馬町の駅前、その一角はたしかに異常事態なんです。でもそのまわりの世界はいつもどおりの普通の生活を続けているんです。道路には普通に車が走っているんです。あれは今思い返しても不思議なものでしたね。そのコントラストがものすごく不思議だった。ところがテレビの画面だと異常事態の部分だけが映されます。実際の印象とは異なったものです。それでテレビというのは怖いものなんだなと、改めて思いました」
気づかない
『アンダーグラウンド』の証言によれば、サリンの被害を受けた人の少なからずが、駅構内に倒れる人に目もくれずに会社へ急ぐ人々でもあったことがわかります。会社で事件報道とその被害者の症状を聞き、初めて自分の症状に気付いたという人(決して軽症の場合ばかりではなく)が少なくありません。
周りの事態に鈍感なだけでなく、自分の状態にも鈍感。それはあの場に遭遇した人だけのものではなく、私たちが皆共有している心性ではないでしょうか。
辺見庸氏は、私たちは悲しいくらいに「慣性の法則」の中で生きている、という言い方で指摘しています。自分の持っている知識・価値観に従って、いったん動き出してしまえば少々のトラブルには立ち止まることもなく「日常」を遂行し、止まったならば今度はかなりの異変にも動くことはない。あくまでも自分の価値体系でしか物事に相対することをしない。それがどんなに危ういことであるかを改めて知らされます。
慣れないことの大切さ
「慣性の法則」に流されたいのは現代人ばかりでなく、人間の本性なのかもしれません。眼の前の変化に丁寧に心を留めていくことの大切さを仏教では「諸行無常」と呼び、仏教の根幹として教えてきました。そのことは逆に言えば、物事を丁寧に受け取ることがいかに難しいかの証左かもしれません。
とりあえず、地下鉄サリンのあの現場にいなかった私は、被害者一人一人が、単なる「四千」という数字に埋まることのない、顔と名前と生活を持った人だったのだということを思い起こしておきたいと思います。人を数字として処理してしまわず、ひとつひとつの、固有のいのちがあることに常に立ち帰ること、それは「慣性」に抗うことのできる感性を保持するための基本の姿勢のはずです。☆
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