西方に再訪して(1997.3)
十方三世の無量慧 おなじく一如に乗じてぞ
二智円満道平等 摂化随縁不思議なり
(浄土和讚)
 この2月に北インドの仏跡参拝に行ってきました。仏跡参拝は8年ぶりになります。
 久しぶりに訪れたインドは、都市部のニューデリーでは外国車が増え、小ぎれいになったな、という印象がありますが、農村部に入ると哲学者然とした老人(壮年?)と人なつっこい子供達と野良牛とが土埃の中で交錯する、あのインドです。旅行者としてはホッとする反面、貧富の差は拡がっているということなのかもしれません。
 8年前に訪れたときは、私は海外旅行自体が初体験だったこともあり、見る物すべてが興味深く、なんてチャーミングな国なんだ、とどっぷりハマってしまったものでした。それは今回も裏切られることはありませんでした。まだまだインドは私たちの価値観を揺さぶってくれる国です。それは快くもあり、苦くもあるのですが。

「違い」の中身

 日本でインドの日常生活の特異さを象徴的に語るとき、昔からいくぶんの嘲笑とともに伝えられてきた話があります。インドでは右手が清浄の手とされており、食事も右手で手づかみで食べる。一方左手は汚れた手とされており、排便の後はお尻を手で拭く・・・誰でも聞いたことがある話ではないでしょうか。
 では本当はどうか。それらの話は事実なのですね。ただし、日本で考えられているのとはかなりニュアンスが異なります。
 まず手づかみの方ですが、これは日本でおにぎりや手巻き寿司やサンドイッチを食べる感覚と思っていただければいいでしょう。カレーのような汁物でも、彼らは実に上手にご飯にからめてしまいます。

インド式
 
 で、問題はトイレの方ですね。
 初めてインドにいってまず困惑するのが、トイレに紙が置いてない場合が非常に多いことです。用を済ませてからそれに気づいて、思わず、あの伝説「インド人は手で拭く」が頭をよぎり、気持ちは奈落の底へ・・・。
 しかし、落ち着くと便器の脇になにやら見慣れない物が置いてあるのに気づきます。料理用の計量カップを大きくしたような、容量約1リットルくらいの手桶。そして足下にはなぜか蛇口が。なんだこれ。掃除用か?自分で流してくれってことか?しかし真実は深い。そう、インドではこれを使って自分の後始末をするわけです。つまり、右手で手桶を持って左手でお尻に水をかけながら洗い流すのです。

知らずに、近づいてた。

 手で拭く、と言われてすぐに私たちが連想するのとずいぶん光景が違いますよね。手で拭くという表現では不充分で、手を使って水で洗う、というのが正確なところでしょう。それでも、実は私は初めてインドにいった時は、水で洗うってのもなあ、とまったく馴染めなかったのが正直なところです。それが今回は逆に、全然抵抗がなくなっていたのは自分でも意外でした。そう、この8年の間に日本ではウォシュレットが急速に普及して、お尻を洗うということが日常にすっかり定着してしまったのですね。慣れてしまうと、以前インド式に対して持っていた奇異な印象はなんだったのだろうかと不思議にも思います。インドの方がずっと先をいっていたんじゃないか。

判断の基準は何処ですか

 そうしてみると私たちは「習慣」というものに無意識のうちに重きを置きすぎているのかもしれないことを思います。ただ慣れているだけに過ぎないことを、当然のこと、最良のことととして、それに合わないことは「変」とレッテルを貼るのみならず、価値が劣ると蔑視してしまう。そんなことはないでしょうか。
 あるいは蔑視しないまでも、価値観が全然違うのだから、と習慣の違いを絶対的な断絶と切り捨ててはいないでしょうか。それは相手の価値観の尊重ではなく、単に対話を拒絶しているにすぎないことに気づかされます。
 習慣と言えば、つい先日も、浄土真宗の作法は他の宗派とはずいぶん違うんですね、と驚かれたことがありました。葬式で清め塩は使わない、焼香は一回、位牌は拝まない、お墓に水はかけない、等など。特に仏事の作法はすでに「習慣」となっているものが多いので、それに合わないものは違和感を持たれてしまうことはよくあります。
 しかし、言うまでもなく作法には各々意味があります。実際に体を動かすことにより、その意味を身につける、というのが作法ということなのでしょう。なら、ただ慣れているからと意味を問わないでいるのはそれこそ作法に合わない所作と言えるかもしれません。自分の心身の動きを常に省みる。時にはその判断の基準も見直してみる。それは丁寧な生き方をする上での大切な作法かもしれません。☆ 

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