きのうはあすに(1996.12)
大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
(教行信証)
 何年か後に今年、1996年を振り返るとき、どんな年だったと思い出すのでしょうか。おそらく、1995年の次の年、というくくり方が多いような気がします。
 たしかに、大震災、オウム事件、と続いた昨年のあとでは、地味な年の印象も受けてしまいますが、思い返してみると、橋本内閣誕生、薬害エイズ、厚生官僚汚職、O157、ペルー大使館占拠事件・・・訃報では
けっこう大変な年だったんですよね。

生きる作法

 一つ一つの事柄は、人が涙や笑いや怒りを重ねることでしか成立しません。しかし、それらは時間と共に速やかにその体温を下げて、単なる歴史の一コマに姿を変えてしまいます。そして私たちは忘れてゆきます。
 忘れること。私たちが何事によらずすぐに忘れてしまうことは、自然が私たちに与えた最大の救いだと言った人がいました。それは一面で正しいのかもしれません。悲しみや怒りをその形のまま持ち続けて生きる体力も気力も誰も持ち合わせていないのだから。
 しかし、私たちが多くのことを忘れながら生きているということだけは忘れないでおいた方がいいのではないでしょうか。忘れてしまっている多くを背負いながら、実はそれによって生かされているのだということは意識しておいた方が間違いが少ないような気がします。

お参りの、2つの形

 まして、お払いなどといって過去を払い捨ててしまおうとするのは何よりも自分の生に対して失礼でしょう。年末年始、仏様にお参りする機会を持つ方は多い事と思いますが、その時にどのような心持ちでお参りしているのかは点検してみる必要はありそうです。
 思想家のひろさちやさんは日本人の多くが神仏に対して「請求書的お参り」をしていると表現しました。家内安全、商売繁盛。あれをして欲しい、こうありたいという願望や欲望を充足させたいという思いからの行為になっていると言い、それは仏様の願いとは程遠い、反宗教的行為だと指摘します。

証として

 では、宗教的お参りとはどういうものでしょう。ひろさちやさんはそれを「領収証的お参り」とします。領収証。確かに頂戴しました、という証し。それが合掌の姿なのです。
 ここで注意して頂きたいのは、領収証であって感謝状ではないということ。ただやみくもに訳も分からずアリガタがるのが宗教的な姿と思われることがありますが、それはちょっと違います(もちろん、領収証を出すこと自体に感謝の意が付随しているのは言うまでもありません
 では何を頂戴したのかと言えば、それは第一に「自分自身」でしょう。何ひとつ飾ることのない私が今ここに在る、その事実に落ちつけたところの確かめが、合掌の姿なのです。それは、つい、本当の自分はこんな人間じゃないと言って今の自分を貶めながら、「あるべき自分」に振り回されるようなことのない、静かで確かな自由の獲得の姿と言ってもいいかもしれません。

大悲に乗じる

 親鸞聖人は、阿弥陀様の働きは、我々の作り出す禍を「転ずる」ことだとお示しになりました。禍を消す(おハライする)ことではなく、忘れたふりをするのでもなく、禍の在処を見据えたうえで、その意味を根底から変えてしまうのが阿弥陀様の「救い」なんだよと。
 私の禍の多くは、私が自分自身(の事実)を確かに頂いていないために生じていることを知らされるとき、私たちは自ずと、まず自分がなすべき道を歩みだします。それは、忘れることによる「救い」よりはるかに確かな「救い」の第一の形に違いありません。■

法話のようなものINDEX

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