河辺にて(1996.10)

願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ
すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり
(高僧和讚)


 テレビの企画で ユーラシア大陸横断ヒッチハイクをしていた猿岩石が見事半年をかけてロンドンへ到着しました。
 テレビ局という保険がついているとはいえ、彼らの奮戦には文句なしに拍手です。特に、通過に45日、全行程の実に四分の一を費やしたインドでは、食うために出家までしてくれて。愛すべき馬鹿どもに乾杯。

誠実な愚直な人

 インドと言えば。
 インドを舞台にして、熊井啓監督により映画化もされた「深い河−ディープリバー−」の著者、遠藤周作氏がこの9月29日(実は私の36回目の誕生日。それはともかく)に亡くなりました。初期の代表作「沈黙」とともに棺に納められたこの小説は遠藤氏の最後の長編小説であり、キリスト教は日本に根付くのかという問いを掘り下げてきた遠藤氏の到達点とも言われています。
 少年期に洗礼を受けたという事実とその意味を、この日本という文化風土の中で極めて誠実に愚直に引き受けようとする中から作品群を生んできた遠藤氏は、その探求の最後の場として、キリスト教でも仏教でもなくヒンズー教の聖地であるインドの聖地ヴァーラナースィを選んだのでした。もっともそこにあるのはヒンズー教というより、人間を裸にする絶対的な冷徹な環境であったようですが。

次の一歩を踏み出すために

 妻の残した生まれ変わるという遺言が頭から去らない中年男、動物たちにのみ孤独を癒される童話作家、戦時中のビルマ戦線での人肉食に最期まで苛まされた戦友を弔う初老の男、そして、異端の神父を志す愚鈍な男大津とその彼をもてあそんだ苦い過去が忘れられない女性美津子。彼らが、旅先のインドで互いに体験の重さを受けとめながら心の深みでかかわりあいそれぞれが再生への足掛かりを見つけていく物語です。
 「深い河」の映画化にあたり、熊井啓監督はこう語っています。「ガンジスのほとりで無償の行為に明け暮れるこの青年は、果たして本当に無力な男であったのか。そんな問い掛けは、毎日、慌ただしい生活に追われている我々自身にも跳ね返り、もう一度人生を見つめ直すことになると思うのです」

微妙の音が聞こえる

 実はこの小説の中に、阿弥陀経が登場します。ガンジス河の川面に向かい、戦友の死にざまを思いながら、また、兵士の呻き声と小鳥のさえずりと敵機の音が交錯するビルマのジャングルを思いながら、元兵士の男が阿弥陀経を誦むのです
 彼仏国土、微風吹動、諸宝行樹、及宝羅網、出微妙音(かの仏国土には微風吹いて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かすに、微妙の音を出す)・・・。
 この「微妙の音」は、天空で輝く夢想の響きではありません。苦悩の現実のただ中で確かに現実を生きようとする者に届く、いのちそのものの声なのです。苦悩の現実を通してこそ、静かに立ち上がってくるいのちの喚び声なのです。

「問い」が見出す

 もしかしたら遠藤周作氏はそれを神の声として聞いていたのかもしれません。仮にそうであったとしても、真摯なキリスト教徒である遠藤氏の宗教的素養す問い」と共に生きること)の確かさがうっかりすると空疎な極楽模様と見過ごしてしまう阿弥陀経の真実を見出していったと言えるのではないでしょうか。
「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」「その人達を包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」(美津子)
 そうだ、インド行こう。 ■

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