学ぶということ(1996.8)
法は平等を貴ぶ (教行信証)
 かつてある人がこう語っていました。「学ぶとは何かが始まることで、終ることのない過程に一歩踏み込むことだ」

 今年は水俣病が「正式に」発見されてから四〇年目にあたります。
 水俣病。大阪万博や70年安保の騒然とした雰囲気に紛れながら、テレビに映された患者の方々のショッキングな症状に圧倒された私はまだ小学生でした。
 今月から東京で水俣展が開かれるとの案内を頂きました。発見40年ということでしょうが、なぜ今、水俣展なの?と思ったのも事実です。それでも、これを機会にと学生時代に読んだ『苦海浄土』を引っ張り出し再読してみたのです。ああそうか、と以前に読んだ時とは違った苦味を感じずにはいられませんでした。すなわち、水俣病事件にこの国は何も学ばなかった、それが今の薬害エイズ事件に直結しているとの思いです。

分かっていたのに

 水俣病はご存じの通り、工場廃液の中の有機水銀の中毒による神経疾患のことで、四肢の感覚障害・運動障害をともない、特に胎児性のそれは悲惨な結果をもたらしました。
 それだけで十分酷な話です。しかし、水俣病事件の本当の悲惨さ、苦さはその周辺が形成したのでした。
 原因は工場廃液。それは関係者(チッソ、労働者、市民、患者、そして国)の誰もが早い段階で分かっていました、多分。それにもかかわらず、解決はおろか原因究明さえ進まずに、被害が拡大するに任せていた(被害者の患者さえ!)という結果になってしまったのです。

差別の鎖

 国の失政をあげるだけでも、チッソの嘘の報告を受けて水俣病の発生が一九六〇年に終息したと発表したこと、当初、水俣病認定の基準を的外れなものにしたこと、原因の断定を、日本中の企業から同様の工場がなくなるまで避けていたこと(薬害エイズと全く同じ!)など糾弾されるべきは多くあります。企業の責任は言うまでもありません。しかし私たちへ重く問いかけるのは、むしろ民衆の側の態度でした。
 当時、水俣は典型的な企業城下町でした。“チッソあっての水俣”、という強固な神話の定着により、行政と企業と市民と患者自身さえも一体化して被害を隠蔽、矮小化する方向に進みます。
 患者と名乗り出た者は土地の“和”の破壊者でした。水俣病の認定は本人の申請によるため、本人が名のり出ない限りどんな重症であっても認められることはありません。かくして何万とも言われる患者のうち「認定」患者数はわずか二二〇〇。しかも患者の多くを占める漁民はもともと地域で蔑まれてたということもあり、“ニセ患者”“公害成金”などの中傷が乱れとぶこととなります。

いのちに学ぶ いのちを学ぶ

 水俣は、実は浄土真宗の門徒が少なくない地域で、『苦海浄土』を著した石牟礼道子氏も門徒の一人です。
 石牟礼氏は語ります。
「(患者の人たち、あるいは)死んだ者たちはあたり前の人生を送りたかったということをおっしゃりたいのですが、なかなか伝わりません。あたり前に生きるとは、この世と心を通い合わせて生きていきたいということなのです。私たちの地方では“煩悩が深い”という言葉を肯定的に使うのですが、その意味での情愛を、ひとさまにも畑にも海にも魚にも船にも猫達にも、生きていることごとくと交わしたい煩悩に、本来私たちは満ちあふれている。それが水俣病でぶったぎられることが辛いんです」
 始めに紹介した「学ぶとは」という言葉はこう続きます。「学んだことの唯一の証しは変ること」。そういえばこの言葉の主、林竹二氏は、足尾銅山鉱毒事件に挺身した田中正造の研究者でした。

 なお、水俣病の全体像については原田正純著『水俣が映す世界』(日本評論社)をお勧めします。

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