440日たって(1996.6)

 今ラジオでさかんに流れているシャ乱Qの『いいわけ』という曲にこんな一節があります。「僕がいなくなりゃ 誰か泣くかな 寝る前 たまに こんなバカな事とか 考えたりした」
 そう、こんなことを私も中学生時代はよく考えていたものです。自分が忘れられること、自分がここにいることが確かめられなくなることへの不安は、大げさでなく人が生きることの根っこに関わってくる感覚なのかもしれません(だからいじめの最たるものはシカト=無視の形をとるのでしょう)。などと神戸の街でぼんやり考えていました。

現在進行形

 ひさしぶりに神戸の仮設住宅へ行ってきました。被災された方々へ花をお届けしながらお話を伺ったり、カラオケで交流会を持つことが目的です。
 阪神・淡路大震災は、特に東京に住んでいる身からはすでに昔の話題になってしまいました。今地震の話をするなら、いつか来る関東大震災の方が関心が強いでしょう。
 実は、その感は神戸に足を入れても同じものがあるのです。現在の神戸の街中には、ひび割れが入っていたり傾いていたりする建物はもう見られません。一見すると復興は確実に着実に進んでいるようです。しかし、被災された方々のお話をうかがうと、震災の影響はまさに現在進行形であることを知らされます。

忘れられる、不安

 仮設住宅入居から一年以上がたちました。その間に、自力で居を構えられる人は次第に仮設住宅を離れていっています。それでも、まだ仮設住宅には約四万世帯が生活しており、その多くは高齢世帯や低所得世帯で、転居のめどがまったくたてられない人達です(実際、仮設住宅にうかがっても、午前中は病院通いのために御留守というお宅が多いのです)一方で、周りの「復興」は目に見えて進んでいるかに見えます。それにより生れる、自分だけが取り残されていく、自分が忘れ去られている、という種類の不安感は、衣食住の現実的な不安とはまた別の次元で、被災者の方々のストレスを高め、孤独死も生んでしまいます。

生の回復のために

 そんな被災者の方々の自立への支援には、行政で、あるいは市民間で様々な術が講じられていることでしょう。しかしどんな形をとるにせよ、そこに、名前と生活の歴史を持ったひとりの人が暮らしていることを忘れない、という姿勢こそが重要なのだと思います。そうしないと私たちは無意識のうちに人のひとりやふたりはたやすく消し去ってしまいます。
 脚本家の山田太一氏のドラマの中にこんな台詞がありました。「生きるってことは、自分の中の、死んで行くものを、くいとめるってこったよ。気を許しゃあすぐ魂も死んで行く。なにかを感じる力なんてェ能力もおとろえちまう。それをあの手この手をつかって、くいとめることよ」(『早春スケッチブック』大和書房)
 忘れないこと。正確に言えば、忘れてしまっている多くのことがあることを常に意識すること。それは私たちの生に厚みを取り戻す重要な作業かもしれません。そういえば、私たちが年回の法事を勤めることの意義もそこにあるのでした。■

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