人間、この非人間的なもの(1996.3)
しかるに末代の道俗、近世の宗師、
自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、
定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
(教行信証)
 40年程前のアメリカでこんな実験が行われました。
 実験に協力してほしいという依頼を受けて、ある大学の研究室を訪れた人に、教授は実験の内容をこう説明します。
「これから、人体への電圧の影響を調べます。隣の部屋には男の人が椅子に座っています。あなたの前の装置はその人に繋がっています。私は記録を取りますので、あなたは電圧を上げるレバーの操作をお願いします」そして、一言付け加えるのです。レバーを最大まであげると命が危ないので気を付けてください、と。
 レバーを少しあげると、隣からうめき声がもれてきます。それを聞いて、はじめは躊躇していた人が、横にいる教授の冷静さに誘われるようにだんだんレバーを上げていきます。
 うめき声は大きくなり、叫び声に変っても、教授はストップをかけません。やがて、レバーは最大まであがっていました。しかしその時にはもうレバーを握る手に躊躇はありませんでした。

正義という麻薬

 実はこの実験は、人体への電圧の影響を調べるものではなく、権威(あるいは正義)の前に人の良心はいかにもろいかを実証してみせたものだったのです。
 実験の対象となったのは職業も年齢もさまざまな男女でしたが、ほとんどの人が、最初はおそるおそる上げていたレバーを最後では抵抗なく最大まで上げてしまったそうです。中には悲鳴を聞きながら笑いを浮べた人もいました。
 悪趣味そのもののこの実験 は「アイヒマンテスト」と呼ばれます。
 第二次大戦中にユダヤ人大量虐殺を計画実行したナチスの中心人物だったアイヒマンは、普段は心優しい気弱な人間であったことが知られています。ところが、いったん立場と正義なり権威なりの後ろ盾があれば、人は何でもしかねない
(だからといって個人の責任が免責されるものではありません)ことをこの実験は示しています。

真実への「畏れ」は?

 そして、今の日本。
 薬害エイズの最大の責任者の一人とされる元厚生省課長が、今勤めている大学の法学部学生から薬害エイズの責任を問われたときに、こう反問したそうです。
「法学は正義の学問ではないのですか?あなたは、真実が何かに関心や畏れを抱かないのですか?」
 真実は一面的なものではない。人一人の行動には、それなりの理由と判断と状況と条件と環境と背景その他諸々があり、それらを切り捨てての断罪にはとうてい承伏できない、という主張でしょうか。その言には聞くべきところがあると思います。ものごとの単純化は予断や偏見の元凶そのものなのですから。
 問題は、この国では真実への「畏れ」がそのまま真実の隠蔽・棚上げに直結してしまうところにあることでしょう。

「自業自得」という、救い

 「畏れる」ものには触らない、触らぬ神に祟りなし。しかし、触らないから祟りがなかったかというと・・・実際には触らないで棚上げしてしまったから祟りを大きくしてしまった例の方があまりに多いんじゃないでしょうか。
 「畏れ」は敬意です。しかし棚上げするという行為は、侮辱の表現でしかありません。畏れているというなら、襟を正して、そのものと正面から向かい合うのが礼儀というもの。
 親鸞聖人は自らの罪業性を「凡夫」と表現されました。自分は「凡夫」なんだから仕方がない、という開き直りの言葉ではまったくなく、自らの罪業性を痛みながら決して目をそらすことをしない、という静かな表明です。それは自分を等身大に照らし出してくださったものへの真摯な「畏れ」に裏打ちされた言葉でした。
 仏教は「自業自得」と説きます。自らが自らを引き受けられることが即ち救いだというこの教えは、逆に言えば自分を引き受けない、責任を放棄する人のなんと多いことかを教えています。真実を畏れているのか、それとも恐れているのか。点検の必要がありそうです。■

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