「やさしさ」という鎧(1995.12)
もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために
善悪の業を造作する。この人は涅槃道を迷失するなり。
これを暫出還復没と名づく。
(教行信証)
 「大人って分かっていないみたいだけど、、親から小遣いをもらってあげるのも、、好きでなくても結婚してあげるのも、、電車で老人に席を譲ってあげないのも、、質問に黙りこんで返事をしないのも、、みーんな私たちがやさしいから、」???
 今年話題になった本の一冊『やさしさの精神病理』(大平健著・岩波新書)の帯にある言葉です。
 精神科医である著者は、近ごろ相談室を訪れる若い人達と自分が持つ常識とのズレを共通して感じとっていました。ある少女は、「通学途中の電車内で、自分の前に立ったおじいさんを年寄り扱いしては悪いという“やさしい”思いから、寝たふりをしていた」と語ります。またある若者は、「仕事でミスをした時に、それを叱る上司の叱り方が気に入らなかったけど“やさしさ”から黙って聞き流していたら上司がますますおこってしまって困りましたよ。ホント、こちらの気持ちも知らないで」

やさしい私に触るなよ

 「やさしさ」が人を評するときの大きな価値となったのは一九七〇年代初めの頃からでしょうか。当時の「やさしさ」は、人間関係において相手に配慮をし、相手の気持ちをくみとり、一種の連帯感を築くことを言っていたと思うのです。それを形にしたのはドラマ「俺たちの旅」ですね。
 それに対して今、蔓延している“やさしさ”は、端的に言えば「自分も相手も傷つけないこと」なのだそうです。一見まっとうなことと思えます。しかし傷つけない、傷つかないための第一の方策が相手の気持ちに立ち入らないこと、と言われると、あれ、と思わざるをえません 人はそれぞれいろいろな価値観を持っているのだから(どんな価値観を持っているのかわからないのだから)、傷つけないためには相手の内面には立ち入らないことが“やさしさ”なんだ、という前提の上で自分の価値観に基づいて人と接しようとするものですから、そこから生れる行為は、本人にとっては思いやりであっても客観的には勝手な思い込みでしかなくなってしまいます(そういうわけで先の若者の台詞になるわけですが、正直言うと彼等の思いはいくらか私の中にも見受けられて、笑えない)。

多様ではなく、無用

 価値観の多様な時代といわれて久しくなります。そこで求められるのが、異なる価値観を尊重することですが、長く同質性を尊しとしてきた私たちは、違いを認めながらもなお、それをあいまいにしておくことが即ち「尊重する」ことなのだと判断してしまったのかもしれませんですから価値観の違い(というより、たんなる思いのズレ)が際だってしまった場面に遭遇すると、ことさらに「傷ついた」思いを受けてしまうこととなります。
 また、相手の内面に立ち入らない“やさしさ”は、そっくりそのままイジメを黙認する土壌となります。「あいつだってイジメられて楽しんでいるかもしれないじゃない」という言葉を聞いたことがあります。“やさしさ”という言葉で自分を正当化したとき、“やさしさ”は戦場での鎧と化しているのでしょう。

「やさしさ」からの脱出

 「傷つける」「傷つけられる」ことを忌避するあまりに人と深い言葉をかわさない“やさしさ”は、自分はうまくやればそれらから逃げ通せるとの思いと一体になっています。しかし、仏教が教えるところでは、自分だけは「傷」とは無縁でいられると思うのは錯覚であり慢心にすぎません。また、傷をただマイナスのものとして認識をするところから生れる“やさしさ”は、むしろ傷を実体化し固定化する働きをすることを仏教は教えています。一見傷のように見えても、脱皮の予兆だったりすることもあるのですから。転ぜられていく可能性をはらんでいないものなどないことを思い出して、新年をむかえましょうか。■

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