大切なこと。(1995.6)
濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の
邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものは
はなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて
多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
(教行信証)

 ここまできたら、オウム真理教を宗教がらみで語らずに詐欺の天才に踊らされたテロ集団、と言ってしまえばすんでしまう話なのかもしれません。とは言え、この一連の事件によって「宗教」への風当たりと不信感が強くなったのは事実でしょう。
 この事件(報道)の中で私が危惧しているのは、宗教は「怖いもの」「不気味なもの」「わけのわからないもの」という思いばかりが残ってしまうことです。それは私が宗教家であるゆえの(職業上の)危惧とは思わないでください。 宗教を「わけのわからない」もの=自分とは関係ないもの、として打ち捨てる。それが宗教の持つ毒(そう、宗教には確かに「毒」があります。だからこそ危険物取扱者として宗教家がいるのでしょう)から逃げることになるのなら、それはそれで仕方ないかもしれません。しかし実際には、宗教へのたんなる忌避は宗教への無知を生むだけであり、形を変えて登場する宗教の類に取り込まれる素地をむしろ固めていると言えます。
 さらにいえば、宗教を軽視することは、宗教の、というより人間の「闇」を軽視・軽蔑することであり、いずれにしてもそれは新たな宗教絡みの事件の防止にはつながらないことだけは断言させてもらいましょう。 厄介な物事に対して「寝た子を起こすな」という処し方が昔からあります。差別や性の教育に関して特に言われてきたことですが、それ式の教育が寝た子を無防備・無知にし、かえって弊害を大きくさせるというのはすでに共通の認識とな
りました。この文脈に宗教を加えるのは今とても妥当性があると思います。

 宗教に惑わされないためには、宗教を避けないこと。宗教にある程度の知識をもって意識の底に置いておくことによって、宗教への免疫をつけるのは絶対に必要なのです(それで宗教に騙されなくなるかと言うと、今回、オウム真理教に著名な宗教学者たちがコロリとやられた事を考えると、そうとも言えないというのが私の口を重くしている一つの原因なのですが)(そして、免疫をつけるための道筋を示す作業を怠っていたという重い責任がわれわれ既成教団の僧侶にあるというのも言うまでもないことです)。 親鸞聖人は、その主著『教行信証』において、激烈な宗教批判を展開しています。ただしそれは他を批判し自宗を持ち
上げる類の批判というよりも、宗教に接するなかで明らかにされる人々の内実に対する批判と言えるものでした。宗教が人間の営みに深く関わる以上、その有り様を撃つことはそのまま人間自身を痛撃します。
 その上で親鸞聖人は宗教(に向かう時の心の有り様)を偽・仮・真の3段階に分けました。これを現代人に向けて翻訳したのは宗教学者の岸本英夫氏です。岸本氏は、宗教を次の3つに分類しています。請願態と希求態と諦住態です。
 請願態とは欲望充足のための宗教。雨乞いや商売繁盛・合格祈願、オカルトもここに入るでしょう。希求態とは自分をより高く磨きあげようとするもの。道徳的宗教です。請願態・希求態は共に、形を違えてもその価値判断の規範を自分に置いている(自分が問われない)ところに共通点があるといえましょう。
 そして最後の諦住態は、損得や善悪の判断をしていた自分自身を諦かにしようとするものです。その自分を諦かに知らしめようとする働きを、親鸞聖人は他力と呼びました。問う者から問われる者への大きな転換がここにはあります。
 自分がこの3態のうちのどこに位置するかを検証することは、宗教を見極める重要なポイントになるはずです。
 もうひとつオマケに、作家の井沢元彦氏流のインチキ宗教の見分け方も紹介しておきます。@多額のお金がかかる、A超能力を売り物にする、B教団トップが贅沢をしている、C教団の内と外で二枚舌を使う、D生命を粗末にする、というのですが・・・こちらの方が実用的ですか。■

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