見ることは、見落すこと。(1995.3)
人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、
指を看視して月を視ざるがごとし。 (教行信証)
週に何冊もどさりと通信販売のカタログが届きます。近頃のカタログは品ぞろえといいデザインといい、見るだけでもけっこう楽しくて、実際、よく利用させてもらっています。
私の子供の頃は通信販売と言えばいかがわしい信用できないものと決まっていましたが、今はもちろんそんなことはなくしっかりした商品が届けられます。しかしやはり、現物を手にしないで注文するとどうしてもイメージのずれというものが生じるのはしかたありません。
見た、という思い込み
テレビショッピングとラジオショッピングの両方を手がけている大手通販会社の人がこんな話をしています。商品を届けてから、これはイメージしていたものとは違ったので、という理由で返品される率は、テレビショッピングとラジオショッピングではテレビのほうが圧倒的に高いというのです。色や形、大きさを目で確かめられるテレビと、言葉だけで商品説明をするラジオ。商品購入には前者の方が圧倒的に確かと思われるのに、どうもそうでは
ないらしいのです。
これはおそらく、「見る」ことへの過剰な自信が原因と思われます。
ラジオで手に入れた情報は、受けた側が、実物と自分のイメージとの落差をあらかじめ折り込んでいるものです。ある程度、自分のイメージにズレがあるであろうことを予想している場合、期待が裏切られるのはむしろ楽しみの範疇に入ってしまいます。
しかしテレビの情報は、それが画面の形に切り取られたものであるにもかかわらず、視聴者はそれを意識していないで、あたかも茶の間で実物を目にしたように錯覚し、届いた商品のイメージのズレを許せなくなってしまうのではないでしょうか。
「この目で見た」から、頼りない。
テレビの画面を通すか否かという以前に、私たちには自分が「この目で見た」ということへの無条件の信頼があるように思えます。「見る」ことによって得る安心。しかし私たちは現実には目に映る全てのものをそのまま認識しているわけではありません。いつも目の前にあっても関心から外れたものは全く記憶に残っていないということは実にしばしばあります。毎日通る道沿いに空き地ができたら、そこに以前何が建っていたか思い出せないという覚えはないでしょうか。
私たちは自分の関心のあるものを、自分の関心の持てる形でしか見ていません。それは、年始めに関西を襲った大震災の例にも当てはまるのではないでしょうか。
だから、思いを馳せる
震災当初、マスコミは絵になる悲惨さ(それは言うまでもなく視聴者が求めたものです)ばかりを追って走り回りました。それが巨額の義捐金を集めたりもしたので非難されることではありませんが、そのために地味ではあっても必要な生活情報が切り捨てられてしまったのも確かです。また、現在では復興の報道が続く中で、いまだに被災の被害下にある人々の生活は、「旬を過ぎた」という馬鹿げた理由により私たちの目前から消えていき、急速に関心が薄れてしまっています。
震災直後、自分たちが何が出来るのかを考える中でこういう呼びかけがありました。「今試されているのは自分たちの想像力だ」。自分たちの持っているものを活かすために想像力を広げよう、という意味だったのですが、この言葉はそれ以上の非常に大きな問いかけを秘めていました。
自分たちが何かを見ることは、すなわちその他を見落とすことです。そういう形でしか私たちは物を見れません。ならば、物事を把握しようとすることは、自分が見落としたものへ思いを向けようとすることだと言えるでしょう。そうしたときに初めて、想像力は創造の力となりえるように思います。■
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