縁、あって(1994.5)

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるる
ことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこし
たまふ
本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみ
たてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
(歎異抄)


 よく、善因善果、悪因悪果と言います。良い種を蒔いたら良い結果が得られ、悪い種を蒔いたら悪い結果になる。これは一見、その通りに思えます。ところが親鸞聖人は、なんでも自分の思い通りにできると勘違いしている思い上がった人間の考えだと言うのです。
 実際、心がけて良いことをしたら良い結果が得られるかと言ったら、そうならないことが世間には多いですね。仏教では「因縁果」といいます。いくら良いことをしても、その人の縁(状況や時代)によっては、悪い結果が出てしまうこともあるのです。
 状況や時代に呑まれて、悪い結果に陥ってしまった、そういうどうしようもない人間の苦しみ、悲しみを課題にしたのが先の歎異抄の一文です。
 
思い通りになるという、思い上がり

 ですから、親鸞聖人が言う善人・悪人は世間での道徳や倫理で言う善人・悪人とは違います。
 親鸞聖人は、善人とは自力作善、すなわち、自分の心がけやはからいで善を作れると考えている人のことだと考えました。
 でも私たちは他のものの影響を受けながらしか生きられない業縁の存在です。根元的な意味において言えば
私たちの命自体が自分で生れようとして生れたわけではありません。縁というつながりの中で、喜んだり悲しんだりしている者、自分の心がけが末通らないと知った者を、親鸞聖人は悪人と呼んだのです。

この身が、眠らせない。

 そこまではいいとして、実は親鸞聖人はさらに深い問いを出しています。親鸞聖人は、本当の仏の心は「他力をたのむ悪人」でなければわからないというのです。他力、すなわち阿弥陀如来をたのむとはどういうことなのでしょう。
 十五年戦争中、満州に志願兵として五年間いた経験をお持ちのご門徒がいます。この方は、本願寺が毎年九月十八日に千鳥が淵で営んでいる全戦没者追悼法要に続けて参加されています。「自分は中国で悪いことをした。でも、靖国神社では中国人に申し訳なかったとは言えない。それで千鳥が淵に参りたい」というのです。
 よく夢を見るそうです。特に戦闘をした二日くらい後に広い穴を掘って死体を放り投げて燃やす夢。死体というのは二日もたつともう目もあてられないというんですね。で、その夢を見た後は、必ずお寺へお参りされるということです。
 この方がよくこうおっしゃいます。「たしかに、私は中国で悪いことをした。しかし、当時はしかたなかったんだ。生きて帰ってこられなかったんだ」
 しかたがなかった。もし、それが本当に腹の底におさまった言葉であるならば、苦しむことはないはずです。でも、悪夢は去ることはありません。

「他力をたのむ」とは

 仏教では人間の行いを身口意の三業といいます。三つがバランスがとれていればいいのですが、この元兵士の方の場合でも、自分のした事は悪いことだと認めていても、それは仕方がなかったんだとはからってしまう。でもそのはからいもまた末通ることはありません。それで身と口と意の三業が整わなくて、苦しみが果てしなく続くこととなります。
 親鸞聖人は「それほどの業を持ちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたる本願のかたじけなさよ」とおっしゃいました。
 行為を、しかたがなかったとごまかすのではなく、正当化するのでもなく、忘れてしまうのもさらになく、行為を認めたそのままで私とともに歩みましょうと如来はおっしゃっている。その声を聞き受けたのが「他力をたのみたてまつる悪人」と言えるでしょうか。

身も心も

 よく、仏教というと心の持ち方だと思われます。しかしそれは半分しか正しくはありません。仏教で言う心とは「身に宿った心」をいうのです。私たちは心だけで生きているのではなく、「身に宿った心」を悩ませながら生きているのです。
 先ほども言ったように、私たちの身というのは、自分で生れようとして生れたわけではありません。自分の心に先だって、この身があった。その事実に、私たちはなかなか納得しません。もう少しこうだったら、とか、何で私だけが、と考えてしまうのが、身に宿った心なのです。
 そんな分離した身と心の姿を知らせ、両者が一つになっていく世界=浄土を、阿弥陀如来は指し示して下さっています。■

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