差別とはつまり怠慢である(1994.3)
如来浄華の聖衆は 正覚のはなより化生して
衆生の願楽ことごとく すみやかにとく満足す
(高僧和讚)

 こんなジョークが囁かれています。
 現在日本で最強の人間は、高田延彦でも佐竹雅昭でも曙でもなく、「俺は差別された!」と叫ぶ奴だ−
 ことは昨年、旧作の記述をめぐっててんかん協会から抗議をされたことに反発した作家の筒井康隆氏が、断筆宣言をして応酬したという騒ぎに始まります。
 断筆宣言を機に、世論はてんかん協会に対して批判的な方向に高まっていきました。それは、これまで本人にとっては些細としか思われない事で「差別だ!」と、抗議されてきた側の、反論もできないが理不尽な思いも捨てられない、というたまった鬱屈が筒井氏絶筆で噴出したかのようでした。その鬱屈が自分の勝手な思い込み(糾弾コワイ)によるものでありながら。

「自主規制」の下の絵空事

 不幸にして誰かを傷つける言動をしてしまった場合に、大切な事は問題の確認(何が傷つけたのか、どうしてそうなったのか)による再発の防止です。しかしこれまで主なマスコミは、何がどう問題とされたかは全く問わず、ただ「問題とされる」ことを回避しようと、そういう恐れがありそうな場面や言葉はことごとく「自主規制」に従い排除していく、という方針を取りつづけてきたのです。
 それによってテレビの中には障害者や被差別部落など存在しない世界が展開することとなります。
 また「良心的」な製作者がたまに被差別者を画面に出しても、必ず努力と笑顔を絶やさない優等生か、民族的課題などを背負って苦悩する悲劇のヒーローとなり、生活をしている現実感が希薄になって魅力のないものになってしまったのがほとんどという惨状だったのです。

そのままだから、笑っちゃう

 それがやっと、映画の世界から生身の体臭を伴った作品が現れて、これまでの「良心的」映画の限界を笑いながら飛び越えてしまいました。
『月はどっちに出ている』
 昨年度のあらゆる賞を独占しながらロングランを続けています。
 在日コリアン二世の姜忠男はタクシー運転手。朝鮮学校の同級生が経営する小さな会社に勤めています。ここに勤めているのが揃ってしょうもない連中で、年中「俺はチョーセン人は嫌いだけど、忠さんは好きだ。金貸してくれよぉ」と忠男につきまとう男や、とんでもな
い方向音痴の元自衛隊員(名前が安保!)。この男は年中道に迷っては会社に電話をかけてくるのですが、その時にうんざりしながら事務員は「月はどっちに出ています?月の方向に走ってください」。揶揄されているのは日本そのものです。

ちゃんと、見て。

 この映画は在日コリアンとフィリピーナを主人公にして、明らかに「差別」が主要なテーマになっています。ではあらためて、「差別」とはどういうことをいうのでしょう。 一般には、「差別」とは「人を見下すこと」という使われ方をしているようですが、でもそれは「差別」の毒のほんの一部でしかありません。
 いわゆる差別問題化する場合の「差別」とは「あらかじめ一つの思い込みを持って人と対すること」と言っていいでしょう。その人が属しているグループやそのひとが持っている特徴のほんの一部をもって、Aは○○だ、○ ○は▲▲だから、Aはどうせ▲▲だ、と未熟な三段論法を展開して人を理解したつもりになってしまう。誰もが無意識に行っているこのことが、実は「差別」の基本です。人をしっかりと見ることをせずに、自分の貧しい予備
知識をもって適当に処理してしまう、人間関係における「怠慢」が「差別」と呼ばれるものなのです。

何が問われているのか

 そう考えると、今まで差別事件を起こした人が必ず口にする「そういう意図はなかった」という弁解が無意味なことがわかります。
 目をつぶって自分の思い込みを振り回し、ちょっとまて、と批判されたら「そういうつもりじゃなかった」とまた、自分の思い込みをもって弁解しようとする。問われているのは、思い込み自体なのです。  その問う、という行為も難しいものです。微妙な所で鼻につき、共感を得るまではなかなか。
 この『月はどちらに出ている』は主人公をいいかげんな、ごく普通の男とすることで、リアリティと普遍性と大きな共感を獲得できたのでした。それは監督自身が在日コリアンだから出来たことではあるのですが、普通を描くことが難しい社会、というのも一度考えてみたいものです。■

法話のようなものINDEX

HOME