知ってるつもり(1993.10)
わがこころのよくてころさぬにはあらず。
また害せじとおもふとも、
百人・千人をころすこともあるべし
(歎異抄)

 宮沢政権が最後の仕事としたのは従軍慰安婦の聞き取り調査。そして細川氏が新首相としてまず発言したのは「あの戦争は侵略戦争だった」
 句読点のない文章がいいなんて大きな勘違いなわけで、とにかく、だらだらと続く判読しがたい文章に区切りをひとつつけるきっかけとなっただけでも、政権交代の意義はあったと言えるでしょう。
 そんな今年の夏、旧日本軍の細菌戦部隊・七三一部隊の全貌を明らかにする『七三一部隊展』が東京新宿を皮切りに全国へ向けて始まりました。
 都内ではすでに六会場が開催、のべ二万人を超す入場者を数えています。ここ八王子では九月下旬に開催して三千人以上の大盛況。私は事務局としてお手伝いをさせていただきました。

今も生きるタブー

 十五年戦争当時、旧満州のハルピン近くに設けられた日本軍七三一部隊は、細菌兵器を開発し、実際に使用し、また各種の人体実験によって中国人やロシア人他の捕虜を毎日殺していきました。その数は三千人以上にのぼったと言われています。
 戦後、七三一部隊の首脳陣は、人体実験他の資料をアメリカに引き渡すことによって東京裁判での訴追を逃れました。海を渡った七三一部隊の研究成果は朝鮮戦争、そしてベトナムの枯れ葉作戦に生かされることとなります。
 訴追を逃れた七三一関連者は大学、製薬会社、国公立の研究所、さらには自衛隊や文部省の要職につき、戦後の医学界に少なからぬ地位と影響力を持ち続けました。それによって七三一部隊の犯罪は闇に隠されただけでなく、存在自体が絶対のタブーとなってしまいます。
 これらの事実は今から十年前に森村誠一氏の『悪魔の飽食』(光文社)によってやっと一般に知られるようになりました。しかし続編の写真引用に誤りがあったことが大問題になり、本は絶版(現在は角川文庫から発行)。七三一部隊の真相を求める動きも急速に静まってしまいました。

骨は訴える

 それが四年前の夏に新宿の戸山で百体以上の人骨が発見されるという事件がおきます。場所は陸軍医学校の跡地で、この骨は七三一部隊が持ち帰ったものではないかとの見方がされるのはむしろ当然でした。ところが区も厚生省も警察も「骨には事件性がない」「我々の管轄ではない」と扱いを回避しつづけ、掘り出された人骨は身元確認をされないまま焼却処分寸前。
 市民運動の粘り強い抗議により発見から二年以上も過ぎてから鑑定が行われ、骨は複数人種のものであり、手術痕や銃痕などが認められるとの結果が出ました。細菌による生体実験の跡は見当たらなかったとのことでしたが、この事件究明を訴える中から、七三一部隊とは何だったのかを広く考えようという声が展示会開催へとつながっていったのです。
 会場となった八王子労政会館は、京王八王子駅から徒歩五分。決して不便な場所ではないのですが知名度は非常に低いため、会期前から会館職員は場所照会の電話に追われることとなります。とにかく、問い合わせ電話の本数はこれまでの最高記録をつくったとか。
 入場者は高校生か大学生くらいの若者が予想外に多く、特にカップルが目につきます。
 会期二日目には、毎日新聞朝刊で、八王子市が部隊展への後援依頼を拒否(政府が事実を認めていないものを後援は出来ない、というのが理由)したことが大きく報じられました。さっそく記事を拡大コピーして赤枠で囲み会場に掲示します。市の対応のお粗末さに一同は怒ったり苦笑いしたり。

忘れたこと、その他のこと

 七三一部隊展会期中に、元軍医の方(七三一部隊員ではありません)が捕虜を生体解剖した経験を証言してくださいました。その中で強い印象に残ったのは次の発言です。
「私は戦争中に数回生体解剖をしました。でもはっきり覚えているのは最初の一回目の様子だけなのです。初めての時は私は緊張もし、震えもしました。回りの医師が解剖室で歓談をしているのを奇異に思ったのを覚えています。でもその雰囲気も次第に慣れてしまって、手術自体、特別な記憶に残るようなことはなくなりました」
 この証言は二つのことを教えてくれます。一つは、捕虜の生体解剖は七三一部隊だけが行っていたのではないこと。もう一つはどのよな残虐性にも人は順応してしまうということ。それは「正義」が持つ呪術性といえましょう。

「正義」からの解放

 七三一部隊のおぞましさの中心は、それが圧倒的に「正義」を標榜していたことにつきます。「七三一部隊は医学の進歩に貢献したと誇りをもっている」と元部隊員が証言したのはつい数年前のことです。
 自分の判断や価値感を保ち続ける力を、錦の御旗をふりかざすことによって見失った時、人は自らを神の座に置いてしまいます。人間が人間として生きるということは、「自分が問う」「自分を問う」このふたつを担い続けることでした。問いがあってはじめて人は人間になる。そのことを歎異抄の文言は教えてくださっているような気がします。■

法話のようなものINDEX

HOME