成長の仕方はいろいろ(1993.1)
賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。
(愚禿抄)
 教育活動が行われている場に仏教者がいるのはそれほど珍しい光景ではありません。学校の教師とお寺の住職を兼職している人は大勢いますし、寺が保育園や幼稚園、学校を経営している例も多くあります。古くは寺子屋というものもありました。
 しかしながら、教育の場では仏教の「顔」は全く見えていない状況があります。今あげた例だけでも、教師と僧侶を兼ねることに単なる「兼職」以上の意味を持たれることはまずないし、寺が経営している幼稚園に仏教的情操育成を期待して入園させる親はいかほどでしょう。仏教系大学は揃って仏教色(抹香臭さ)を消すのに躍起になって、それに成功した大学では志願者が増えて喜んでいるというから情けない。
 それは憲法にある「信教の自由」原則のせいばかりではなく、仏教界の怠慢に他なりません。怠慢の内容をひとつだけ言えば、無節操に「人様の役に立つ」道を選択してきたことがあげられるでしょう。人の役に立つこと自体は一面では美しく、どこからも非難する点はなさそうです。しかし無節操なそれは、その人の欲望の充足に力を貸すことです。そして、欲望充足は仏教においては第一の迷い(決して尽きることはない)であり、なにより打ち捨てられるべきものと考えられているのです。それをあたかも本来の仕事のように振る舞ってきた仏教者。転倒しているとしか言えません。人の機嫌を伺いながら期待されている(と勝手に思っている)方向・・・ある時は○○祈願などと自分勝手な願いを助勢し、ある時は道徳という名の通俗を押しつけ・・・に進むうちに仏教はどこへやら「顔」を失ってしまいました。それはもしかしたら、教育者にも一部当てはまってしまうことかもしれません。
 多くの著作で世間の常識を揺さぶりつづけ、「見方革命」を提唱する仏教思想家ひろさちや氏と、現場で、またマスコミの場で教育に関わってきた野本三吉氏、長谷川孝氏の鼎談録『娑婆の教育 極楽の教育』(すずき出版)は、ひろ氏が野本、長谷川両氏を翻弄しながら挑発しながら、「教育」が本来、何を目指しているのかを探っていきます。教育の現状を仏教の目で見るとどう捉えられるかという試みの書のようですが、ここでひろ氏が展開する仏教的視点は、そのまま娑婆の教育を成立させているもの(学校教育にとどまらない、現代日本が要求しているもの)を撃つ言葉として鋭い切れ味をみせます。「文部省が産業社会に役立つ人間をつくろうとしたときに、われわれは役に立たない人間をつくるぞと言って、はじめて主張がある」「必要な善・必要な悪・不必要な善・不必要な悪の四つの組み合わせを考えるべきなのに、日本人は必要・不必要だけでものごとを判定しようとする」
 「認識の宗教」と呼ばれる仏教では、真実を「諦」と名付けました。諦は明らめであり、アキラメです。ものごとをあるがままに認識できたらアタフタすることはない、という教えは現代に多くのものを教えているはずです。鼎談では三者の間で「まるがまま」の位置が異なっていたために若干のズレが生じましたが、それも議論に深みを加えました。
 日本人が自覚的にか無自覚的にか呪縛されているもの、「必要」「夢」「自己実現」……それらからの解放が人間をどれだけ楽にさせることか(「楽をするのは悪だ」という観念にも呪縛されていますね)。自分の認識の在り処が問われます。■

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