「ある人」たち(2022.12)


解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものは皆
有無を離ると述べたもう 平等覚に帰命せよ (浄土和讃)

  『ある男』という映画が上映中です。傑作です。
 原作は平野啓一郎の同名小説。映画のストーリーはほぼ原作そのままです。原作の方が登場人物も多く、筋も分かりやすいような気がしますが、映画の魅力はなんと言っても俳優陣。まるで当て書きかと思うほどキャスティングが見事(特に柄本明!原作の人物像とはかなり姿が異なりますが、他の役者が思いつかない怪演)。ぜひ、映画館で堪能していただきたい。

「ある男」たち

 物語は宮崎の田舎町で始まります。シングルマザーの武本里枝(安藤サクラ)が営む文房具屋店に、ある日から、里枝と同年代の男性・谷口大祐(窪田正孝)が通い出します。どこかから転居してきて、少し訳あり風ですがとても心優しい大祐と、悲しい過去を持つ里枝は次第に心を開きあい、結婚し、幸せで穏やかな日々を送っていました。
 そんな中、大祐は事故で急死します。大祐は実家とは疎遠にしていたのですが、里枝が連絡をすると大祐の兄(眞島秀和)が法事に訪れます。その兄は、大祐の遺影を見て、弟とは全くの別人だと断言するのです。混乱する里枝。自分が愛した夫「大祐」は本当は誰だったのか。嘘の上に築いた自分たちの幸せは、まるまる嘘だったのか。
 里枝はその調査を、かつて離婚したときに世話になった弁護士・城戸章良(妻夫木聡)に依頼します。城戸は、調べを進めるうち、「大祐」と名乗っていた男・Xの正体も、本当の大祐の消息もつきとめます。そこには、人生をリセットしたいと切実に考えた人たちがいました。その思いに城戸は共感していきます。なぜなら城戸自身も、出自に関わることでの軋轢を日々体験していたからです。調査は、城戸にもうひとつの問いも育てていきます。果たして自分は、家族のことを知っていると言えるだろうか。自分は妻のことをちゃんと分かっているのかと。
 タイトルの「ある男」とは、「大祐」を名乗っていた男・Xでもあり、「大祐」の戸籍を譲った大祐でもあり、出自を担う城戸でもあります。そして里枝の息子・悠人でもあります。悠人は母の結婚離婚によって姓を何回も変えさせられることで、里枝にこう問いかけるのでした。「僕の本当の名前は何?」

「本当」はどこに

 『ある男』は、当人には全く責任のない出自により、何物かを背負わされ、迷いながら生きる者たちの物語です。彼らの多くは出自を隠します。隠すこともまた他からの攻撃材料になります。お前が生きているのは偽りの人生だと。お前が隠しているものこそ「本当」のお前だと。それを否定しきれない当人には、自責や自己否定の思いをも生まれます。
 でも「本当」とは何でしょうか。仮に、過去に嘘や隠し事が混ざっていたとして、それが現在の「本当」を否定することになるのでしょうか。過去に嘘や偽りや悪があったことの痛みが、より、現在に「本当」を築こうとする原動力になることはあると思うのです。
 映画『ある男』の終盤。「大祐」の本名や、彼がどんな人生を歩んできたかを知らされた里枝は、静かに微笑みながらつぶやきます。「私は、真実がどうであったかなんて、知らなくてもよかったんですよね」このセリフは,原作にはありません。

平等を覚る

 「本当」「真実」という言葉は魅惑的です。それに「唯一」が付くとなおさら。だからしばしば、人は「唯一の真実」に惑わされ迷います。
 仏教は唯一を提示しません。あらゆるものは縁によって常に姿を変えていくと教えます。確かなものを求め、変わっていった中のひとかけらを握りしめ、こだわりを持つのが私。その心をお釈迦さまは「執着」と呼び、苦の源とお示しになりました。
 親鸞聖人は和讃で「解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものは皆 有無を離ると述べたもう 平等覚に帰命せよ」とおっしゃいます。
  「有無」とは「これは有る」「これは無い」と判断することです。さらには、「これは本当」「これは嘘」と分別することです。
そういう思考法から離れてください、と親鸞聖人は言うのです。判断するな、とか、本当と嘘をごっちゃにしていい、などと言っているのではありません。たとえ正しいことであっても、それに拘ったり囚われたりすると、「正しい」はずのことが苦を生みますよ、とご教示なのです。同和讃では阿弥陀さまを「平等覚」と別名で呼ばれました。阿弥陀さまは、「平等」を覚れよ、気づけよ、と呼びかけている仏さまです。ここでの「平等」とは、そのままの今を大切にする生き方です。今の今以外の本当はありません。(住職)■

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