「違和感」のススメ(2022.6)


解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ   (浄土和讃)

  「ヘアドネーション」という活動をご存知でしょうか。長く伸びた頭髪をカットして寄付し、病気などで頭髪を失った、主に若年者のためのウィッグ(かつら)に役立てるものです。女優さんがヘアドネーションをしたときには、ニュースにもなったりします。
 一般には尊い活動として認識されていると思われますが、日本で最初にヘアドネーション団体を立ち上げ、現在も活動を続けている渡辺貴一さんは、そういう世間の見方に大きな違和感を感じていると言います。

 複雑な喜び

 渡辺さんは美容師です。渡辺さんにとって髪は、仕事で大量に生じる「ゴミ」でしかありませんでした。その有効活用を考えていたとき、海外の事例から思いついたのが子ども向け医療用ウィッグ。ゴミの再利用からの発想なので、感謝されるようなものではないと言うのです。
 加えて、渡辺さんの「違和感」はもっと本質的な、深いところにもありました。
 ヘアドネーションの対象となるのは、脱毛によって苦しみを感じている人たちです。髪がないことによって、社会の中で差別やいじめや奇異の目を受けている人たちです。その人たちにウィッグを付けてもらうことで、健やかな日常生活を送ってもらいたい、と願っての活動です。事実、ウィッグを受け取った人たちはそれによって平穏な、あるいは自信を持った生活を得られたとの喜びが生まれています。髪を寄付した人も、寄付された人も、その仲立ちをした人も喜ぶという三方得。
 しかし本来は、髪がないということで差別やいじめや奇異の目を受ける、ということ自体がおかしいのではないかと渡辺さんは思い至ります。髪はなくても何の不都合もなく楽しく暮らせる社会の方がずっといいはずと。つまり、自分たちがウィッグを提供することは、結果的に、脱毛を差別する社会を補強することになっている。そこまで言わないにしても、差別社会の温存にはなっている。髪がなくてもいい社会や髪の有無によって差別が生まれない社会の実現の、先延ばしに加担していると。

 あるのもいい。ないのもいい。

 渡辺さんは、必要とする人へウィッグを提供する一方で、この活動があることで傷ついている人がいる可能性も常に意識していると言います。たとえば、ウィッグを届けられる人は少数です。望みながらまだ手にできていない人が、それによって劣等意識を感じることはありえます。また、ウィッグを手にした人が「恵んでもらった」という引け目を感じてしまうこともありえます。髪を寄付した人は百%善意であっても、そこに上下関係が生まれてしまうのは現在では避けられないとも言います。
 そういうことからも、渡辺さんは、ウィッグを必要としない社会づくりへの働きかけも進めています。そのひとつとして、渡辺さんが代表を務めるヘアドネーション団体は、設立十周年を記念して、昨年に『31cm』という書籍を発刊しました。ここには、髪を提供した人、それを受け取った人、その仲立ちをした人、治療に携わる人、それぞれの思いが語られるとともに、ウィッグでお洒落を楽しむ人と、無髪で自身を主張する人の写真が混在しています。「髪があることを当然」とするのでもなく、「髪がないことを恥じるな」と強要するのでもない。当人にとって最良である状況が実現するようにとの願いが染み出る本になりました。

   違和感を大切に

 渡辺さんは語ります。「差別はなくならないと思っています。ただ、この違和感には気付いたほうがいいと思っているので僕は伝えています。もちろん、善意のマウンティング(優越的態度)は無意識ですので、このような話をされると不快になる方もいると思います。勉強すれば解決するということでもありません。だからこそ、自分自身は常にマウンティングをする危険があり、自分は正しいのか、誰かを傷つけていないのかを常に考える必要があるんじゃないでしょうか。そして、きっとそれが常識のようになっていくんだと思います」  親鸞聖人がお書きになった和讃にこんな一節があります。 「光触かぶる者は皆、有無を離ると述べたもう」  光=仏の智慧に触れた者は皆、救いに導かれます。その救いはたとえば、「有無を離れる」という形で実現するのです、と。「有無」というは「これは有る」「あれは無い」という「判断」です。「割り切り」です。もっと平たく言えば、「分かった気になる」状態と言えるでしょうそこから離れる。分かった気にならない。ということは、関心を持ち続けるということです。それは、常に我が身を振り返り検証することでもあります。確かなところに身を置かない。それが確かに生きるということなのでしょう。(住職)■

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