「お供え」が教えること(2022.3)


いづれもいづれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。(歎異抄)

 TBSラジオの番組、『伊集院光とらじおと』がこの春に終了します。実にいい番組だったのに本当に残念。しかも最終回間近となって伊集院さんが新型コロナに感染し、休養を余儀なくされるという・・・いやはや。伊集院さんには、数年後、あるいは別の局ででも、朝のラジオに再登板されることを切に願います。

  お供えは誰のため

 この番組には名コーナーがいくつもありますが、そのひとつが「自由律俳句」。自由律俳句とは、五七五の文字数や季語などの制限なしに、思いを自由に表現した作品をリスナーが投稿するものです。  その中でこんな一句が紹介されました。

祖母が食べないようなお菓子をお供えする

 伊集院光さんはこのお菓子をマカロンと想像されました。分かる気がします。
 お仏壇へのお供えというと、故人の好物だったもの、と考えがちです。それはお供えが、故人のためにするもの、という思いがあるからでしょう。仏さまとなられた故人がまず味わって、その残り物を私たちが頂いていると思っている方は少なくありません。
 それは違います。お仏壇へのお供えは、何であれ、お仏壇のお飾りです。それらは皆、お仏壇の前に座る者=私のためにご用意くださったものです。「自分が用意したもの」がそのまま、「自分のために用意されたもの」へ転換するのが、お仏壇という空間なのです。
 お供えを代表するのはお仏飯。お仏飯は「仏さまのための飯」ではありません。「仏さまからの飯」です。仏さまが召し上がるものではなくて、飯を代表とする様々な食べ物、いや食べ物に限らず私が手にする全てのものの象徴です。仏さまから私への賜りものなのです。ここに供えられるまで、どれだけの人、機械、道具、土、雨、風が関わってきたことか。それに思いを馳せながら口にするご飯は、味にも深みが加わるのではないでしょうか。

  まずお仏壇へ

 以前は、頂き物や初物はまずお仏壇にお供えして、そのお下がりをいただくという習慣は広く根付いていました。これは一見、「めずらしいものはまずご先祖に楽しんでいただこう」という思いからのようにも見えますが、本質的には、「すべてのものは『賜り物』である」「大きな縁の中に行かされている私である」と日常の中で自覚を新たにしていく作業だったのでしょう。
 ですので、お供えはお下がりを頂くところまでが、お供えです。そのためには、長く置いてはいけません。干からびるまでお供えをして、不味くしたり、捨ててしまってはいけません。お仏飯であれば、朝にお供えしたなら、昼には下げて頂きましょう。傷みやすい物なら、お供えし、礼拝してすぐに下げ、美味しいうちに頂きましょう。お供えを賜りものとして考える浄土真宗では、原則的には、お供えをしてはいけないものはありません。

  私も世界を飾っている

 では、私たちにできる最も大きなお供えは何でしょうか。それは、自分自身です。ご自身が仏さまの前で手を合わせる。それが最大のお供えだと思います。そして、お下がりをいただきましょう。この私をまるのままいただく。ちっぽけで頼りなくひとりぼっちに見えていた自分は、実は大きないのちの結晶なのです。
 冒頭に紹介した俳句。めずらしいお菓子を手にした嬉しさと、おばあちゃんを思いながらそれを食する楽しさが目に浮かびます。お供えするという一手間が、生活を豊かに潤します。(住職)■

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