おかえり(2021.12)


いづれもいづれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。(歎異抄)

  この十月末まで放送されていた、NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』。
 このところ質の高い作品を連発している朝ドラですが、その中にあっても印象深い作品となりました。安達奈緒子氏による繊細かつ力強い脚本。それを演じきった俳優陣。彼らに全幅の信頼を置いた演出。作品に関わった全ての方に拍手を贈ります。
 時代は現代。宮城県気仙沼の島で育ったモネが、一旦見失った自分の居場所を探していく姿が縦軸となっています。登場するのは皆善人ばかりです。しかしそれぞれが胸の内に深い痛みと欠落を抱えています。それをもたらしたのは東日本大震災でした。触れることさえ許されない悲しみを前に、人びとは戸惑いながらも手当てを試みます。人の癒やしはどうもたらされるのか。自分の居場所はどこにあるのか。自分の罪は許されるのか。そんな問いから生まれた、珠玉のセリフが満載です。

  悲しみが生きる支えに

「俺は立ち直らねぇよ。絶対に、立ち直らねぇ!」
 漁師の新次の言葉です。新次は、最愛の妻が津波により行方不明に。五年経っても死亡届を出すことができません。
「五年って長いですか。おまえ、まだそんな状態かよって、あっちこっちで言われるんですよ。でも俺、何でか、もうずーっとドン底で」「俺は立ち直らねぇよ。絶対に、立ち直らねぇ!」
 立ち直れない、ではなく、立ち直らない、と言うのです。立ち直ってしまうことは、妻を忘れるということではないかと恐れてもいるようです。
 「俺は立ち直らない」という言葉は、脚本を書いた安達氏が気仙沼での取材中に出会った言葉でした。ただ、そのニュアンスはドラマでの使われ方とは少し違いました。立ち直る、には「元に戻る」というイメージがありますが、元に戻ることが必ずしもいいこととは思わない、というのです。元に戻るのではなく、傷を傷としたままそれを担いながら先に進みたいというのです。生のまるごとの肯定がここにあります。

  「分からない」から

「あなたの痛みは、僕には分かりません。でも・・・、分かりたいと思っています」
 モネへ、後に恋人となる菅波が伝えた言葉です。相手の何がしかが「分かる」と思えてしまうのは傲慢なことかもしれません。また、人は何かを「分かった」と思った瞬間に、その対称への関心を無くしてしまいます。「分からない」からこそ、続き深められる関係があるのです。

  わが想像力の貧しさを嗤え

「もし、助けてもらってばっかりだったとしても、それはそれでいいっていう世の中の方がいいんじゃないかな」
 生きづらさを感じている中学生のあかりに、モネが語りかけた言葉です。自分には何の力もなく、助けられてばかりで、お返しもできないと俯くあかり。彼女へモネは、それでいいじゃない、と笑いかけます。事実、その後にあかりは、モネの母の亜哉子に、その存在だけで大きな贈り物をすることになります。
 人の存在は、人の想像を超えています。自分の想像力はけっこう貧しいらしいぞという自戒を持っておくことは生きる秘訣のような気がします。それを教えているのが次の言葉。
「その山の葉っぱさんたちが、海の栄養になるのさ。山は海とつながっているんだ。なーんも関係ねえように見えるもんが、なんかの役に立つってことが世の中にはいっぺえあるんだよ」
 モネの祖父・龍己がモネに語った言葉です。龍己は牡蠣の養殖が本業ですが、同時に植林へも携わっています。山が健康でないといい牡蠣が育たないと経験的に知っていたからです。
 Mr.Childrenの『彩り』という歌の一節を思い出しました。
〈僕のした単純作業が、この世界を回り回って、まだ出会ったこともない人の 笑い声を作っていく〉
 自分の存在が無意味であり、居場所などないと思ってしまうことがあります。でも、思いがけず何かを支え、知らずに誰かに支えられているのが私という存在です。それに気づいてくれよと響いてくださるのが南無阿弥陀仏です。お念仏です。誰もに用意されている居場所を、誰もがきちんと受け止められることを願ってここに届いてくださっています。

  ただいま

 『おかえりモネ』というタイトルは、モネが、一旦見失った自分の価値に立ち戻るという意味が込められています。価値を求めて彷徨っていたモネはいつしか、価値などどうでもいい、そのままを首肯ける地平に立っていました。そういえば、『彩り』の歌詞にはこんな一節もありました。
〈ただいま おかえり〉
 それはそのまま、「南無阿弥陀仏」の正確な意訳です。(住職)■


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