善意がなせる業(2021.9)


小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき  (正像末和讃)

  パラリンピックでは、ふだん目にすることのない未知の競技への興味が湧くとともに、アスリートたちの奮闘とその技術にただただ感嘆したものです。そして、それらの姿に触れる機会が、パラリンピックの開催される四年に一回だけではなく、もっと増えることを望みます。障害者=かわいそう・不幸、あるいは、=特別な人、という図式が崩れるように。でもそれはそれで、「がんばっていない障害者」への冷たい眼が強まるような気もしますが。

  五年たって見えたこと

 相模原の障害者施設やまゆり園に刃物を持った男が押し入り、十九人を殺害、二六人が重軽傷を負った事件が起きてから今年七月二六日で丸五年になりました。
 事件を起こした植松聖は、裁判中も「重度障害者を生かすのは不幸」と反省の色を見せることはないままに死刑判決を受け、控訴をすることもなく死刑囚として収監中です。
 植松は事件を起こした施設の元職員でした。彼が勤務していた時の様子が、雑誌『創 二〇二一年八月号』で紹介されていたのですが、それによると植松がとても優秀で真面目な職員だったことが伺えるのです。
 施設では、業務中にヒヤリとしたりハッとした事例を記録して、職員で共有するために「ヒヤリハット報告書」を作っています。それによると、二〇一四年頃の彼は、利用者に対してきわめて細かく目を配り、異常にもいち早く気づいて的確な処置をしていたことが伺えます。
 ある時には、食事風景から体調の異常を察知し、その後の変化にも注目して一命を取りとめたことが記されています。また別の日には、利用者が入浴中にてんかん発作を起こして溺れている状況だったのを、迅速に適切な処置を行って大事に至らなかったことが記録されています。そんな職員がどうして、あのような凄惨な事件を起こすにいたったのでしょうか。
 理由は定かではありません。可能性として一つに、職場で彼があまり評価されていなかったと見られることはあげられます。先の浴室でのケースに上司がコメントをつけているのですが、「『溺れている』なんて大袈裟な言葉は使うな」と注意をされてしまっています。努力が報われない中で自他の意味が見失われたということはないでしょうか。

  疑わないという危険

 また気になるのは、植松が陰謀論の信奉者だったと伝えられていることです。事件の一年ほど前から「世界はある秘密結社に牛耳られている」と考えるようになったとのこと。陰謀論を醸成するのは、孤独と孤立感と不公正感です。彼の環境の反映とも思えます。
 折りしも事件が起きた年は、アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利し、分断があたかも真っ当な社会がとる手段であるかの主張が声高になった時期でした。自らの価値観を疑うことなしに押し通してよし、対立者の意見は一顧だにしなくてよしとする手法が伸長しました。言葉にできなかった押し込められた感情が言葉になったとき、それまで控えていた行動の実現へ背中を押されることはあるかもしれません。

  善意が背中を押した

 やまゆり園事件について、しばしば、加害者は「優性思想」に基づいて犯行を起こしたと評されます。優性思想とは、「身体的・精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護するとともに、劣っている者の遺伝子を排除して後世に遺そうする思想」で、病人や障害者への差別を正当化するものです。目指すのは「強く美しい社会」です。
 しかしやまゆり園事件の植松に、そんな社会への志向は見られません。彼の眼差しは社会ではなく、重度障害のある利用者へ向いていました。彼の発想は障害者の排除ではなく、障害者への「善意」だったのです。今のままでは不幸だから、楽にしてあげたいとの。
 悪気はなかったから許せ、と言っているのではありません。相手の思いを分かっていることを疑わない態度は、相手を邪魔者・無価値と疑わない態度と同列です。植松は、施設職員として「優秀」だったことからも、「自分を疑う」という術をどこかで失ってしまったのかもしれません。

  小慈小悲もなき身

 他者を殺めた者の環境に思いを巡らせることは、擁護が目的ではありません。加害者を怪物視・特別視し、その思想を唾棄してすませてしまうのは、その事象を他人事化すると考えるものです。障害者施設で仕事へきちんとした姿勢を見せていた人物が、いつしか殺人者になってしまった事実から開かれる視界はあるのではないでしょうか。
  小慈小悲もなき身にて
  有情利益はおもふまじ
  如来の願船いまさずは
  苦海をいかでかわたるべき
 阿弥陀如来の光は、私の不確かさを知らせます。不確かさをの自覚こそが、苦の世界を生き抜く力であるとお示しです。(住職)■ 

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