逃げたヘビの見つけ方(2021.6)


辺地七宝の宮殿に 五百歳まで出でずして
自ら過咎をなさしめて もろもろの厄を受くるなり(正像末和讃)

 横浜市戸塚区で行方不明になっていた3.5メートルのアミメニシキヘビが、5月22日に、飼われていたアパートの屋根裏から無事発見されました。逃げ出してから17日。その間、地元の警察・消防・市役所から1日200人態勢で捜索を続けていましたが見つからず、その捜索が21日に打ち切られた翌日のことです。
 発見・捕獲に尽力したのは、日本爬虫類両生類協会の白輪剛史理事長と、茨城で爬虫類ショップを営む店主。店主は、警察官や市職員が警察犬を導入しながら捜索しているのに対して、「逃げたヘビは、本来は木の上に住んでいる習性を持っている。地面より上を探すべきだ」と申し入れたのに相手にされなかったとのこと。捜索が打ち切られたので自ら屋根裏へ入り、すぐの発見となったのです。
 警察も一度は屋根裏を探したけれど、その時には見つからなかったので他に目を向けたという説もあります。それにしても、専門家の意見を軽視しながら徒に無駄と危険を重ねていくさまは、現代日本を象徴しているような出来事と思えてなりません。

  餅は餅屋

 政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は、6月に入ってから、オリンピック開催への厳しい見方を続けて表明しました。「今の現状でやるのは、普通はない」「ジャーナリストやスポンサーら大会関係者が規則を遵守してくれるのか。選手より懸念があるのは専門家の一致した意見だ」。そして「感染リスクについて近々、関係者に考えを示したい」との意向に対して、田村厚生労働省大臣は「自主的な研究成果の発表という形で受け止める」と応えています。政府が任命した対策分科会の会長の意見を公のものと認めないという姿勢。専門家の意見を参考にすると言いながら、自分たちに都合のいい部分だけ拾い尊重し、意向に合わないことは切り捨てるという態度は、以前の、日本学術会議を巡る会員任命見送りにも通じるものを感じずにはいられません。
 蓄積された知見に敬意を払うこともなく、根拠に乏しい思い込みと思いつきと願望に頼って判断し発言し、それで結果が出るならまだしも当然ながらそうならず、それなのに責任を取らないという例は、近年に限ってもいくつも思い出せます。それは必ずしも政治の場面ばかりではなく、程度の差はあれ、日本社会の今に通底する心性のような気がします。いやそれは「現代社会」に限定する必要もないのでしょう。私たちには本来そういう性質が備わっているのかも。しかしこれまでは巧妙に隠しおおせていたのが、SNSなど、だだ漏れしてしまう環境がこうさせてしまっているとも思えます。

  宮殿は楽しいですか

 親鸞聖人にこんな和讃があります。
  辺地七宝の宮殿に
  五百歳まで出でずして
  自ら過咎をなさしめて
  もろもろの厄を受くるなり
 七宝はお宝。自分が最も価値があると思っているもの。宝石や財力、知識や経験などです。それらを材料として築き上げた宮殿の中に五百年(つまりいつまでも)閉じこもって満足しているのは、そのまま過咎(罪)を作り続けていることであり、それは自他を傷つけることとなりますよ、という警告です。
 この和讃は以前、「専門バカ」を揶揄する文脈で用いられたことがあります。自分の専門分野には通じていても他の世界を知らない人を嗤う風潮が一時期はあったのです。現在、「専門バカ」という言葉を耳にすることはなくなりました。「専門バカ」は「専門」への権威性を前提として、そこへの反発から生まれた言葉です。しかし専門家から権威(と敬意)を奪ってしまえば、揶揄する必要もなく、ただ消費する対象と扱われがちなのが現在と言えないでしょうか。そうした時に、先の和讃で批判された七宝の宮殿の住人は、専門家ではなく、専門家(を代表とする他者)を都合よく道具化しさえする私なのかもと気づかされます。

  ヘビは今どこにいる

 専門家も万全ではありません。いろいろな方がいます。間違いもします。だからその意見に無条件に従えとは言いません。受け入れられない意見もあるでしょう。その時に必要なのは、我も不完全であり、彼も不完全であることを前提として、常に訂正可能性を担保しつつ判断し続けることでしょう。七宝の宮殿から出て、判断の練習をする中で、探していた大切なものがすぐ近く、もしかしたら頭の上にずっと潜んでいたことに気づくこともあるかもしれません。(住職)■ 

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