どん底に大地あり(2020.12)


いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄)

 先月まで放送されていたNHKの連続テレビ小説『エール』。コロナ渦の中で始まった当初は、大袈裟な演出によるコメディドラマの趣でした。しかし後半、戦争の影が強まるにつれ、作品は意外なほどの深みを加えていきました。
 このドラマ、作曲家の古関裕而氏がモデルです。事実、作中で使われた曲はすべて実在する古関氏の作品です。ただしフィクションも少なからず加えられていました(具体的には、裕一と小山田耕三との確執。実際の古関氏と小山田のモデル・山田耕筰の関係は良好だったようです。そして、裕一と長崎の永田医師との出合い。現実の古関氏と永田医師のモデル・永井隆氏が会うことはありませんでした)。しかしそれらが作品を深くしたのですから、むしろ改変を有難く思うものです。

  ここにいる「意味」とは

 主人公の作曲家・古山裕一は、幼い頃は勉強も運動も出来ず劣等生とされていたのが、音楽と出会ったことによって自分の居場所を見つけます。そんな彼は、国中が戦争に沸き立つ中で、音楽しか能がない自身は社会において意味がないと嘆いていた折り、戦意高揚の作曲を求められ、それが世間に流布したことで社会貢献の喜びを感じていました。しかし慰問先で戦場の実態を垣間見、そこへ若い兵士たちや自分の恩師を送り込んだのが自作の曲であったと、強い自責の念に苦しむのです。それは戦後、周囲から「かつて戦争を煽った者」と罵られることによってより強いものとなりました。
 裕一の友人の歌手・佐藤久志は、戦時歌謡を歌って戦中は大変な人気者でしたが、戦後は一転してまるで戦犯のように疎まれるようになり、帰る場所を失って自堕落な生活に浸ります。裕一の義兄・関内智彦は、戦中は軍人として全てを国に捧げることを使命としましたが、戦後はそれがまったく意味を失っただけでなく世間からの蔑みの対象にさえなったことを受け止められません。
 人びとの不満は、その事態をもたらした政府や軍の責任を問うより先に、目先の者に向かいます。反目する必要のない者どうしが敵対し、弱い者が弱い者を叩く。その悲しい描写は現在の反映に他なりません。

  どん底に大地あり

 生きる意味を失った裕一が立ち直るきっかけとなったのは、「長崎の鐘」の曲の注文が来たことでした。裕一は曲の手がかりを求めて長崎に向かいます。そこで、自身も被爆しながら被災者の治療にあたる永田武医師と出合うのです。
 永田医師は裕一に語ります。「学生が私に問うのです。『神はいるのですか?』私はこう答えました。『落ちろ、落ちろ!どん底までおちろ!』あなたにその意味が分かりますか?」
 裕一は戦中、自分の生きる「居場所」と「意味」を世間から与えられますが、戦後たちまちその意味を奪われます。では私の意味は?と問いつつ曲を模索する裕一の背中に、永田医師はつぶやくのです。「自分を見つめても答えは見つからんのだがな」
 裕一は「長崎の鐘」の地へ向かい、そこで永田医師が書き残したこの言葉に出会います。「どん底に大地あり」。裕一は目が開かれる思いでした。その言葉に促されるように裕一から曲が再び生まれていきました。

  地獄は一定すみか

 「どん底に大地あり」。永田医師のモデルとなった永井隆氏がどのような気持ちでこの言葉を記したのでしょう。私はこう想像します。なぜ?どうして?と我が身を振り返る苦しみの先、我が身の意味をも考えようがない状況で、意味があるなしなど問題とならない世界があったのだと知らされたのではないかと。力が果てた先に、じたばたしていたこの身をまるごと受け止めてくれる大地があった。それだけでなく、自分と同じように大地に抱かれている人びとの存在があったのだ、と。この言葉から私は親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉を思い出しました。『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人は「もしお念仏が地獄に堕ちる行だとしてもかまわない。もともと、お念仏がなければ地獄にしか堕ちようのない私なのだから」とおっしゃいます。自らの悟りや救いを求めていた心が転じられ、それらから自分が最も遠い存在であったと頷いた時、かねてから支えられていた者、包まれていた者との確かな安心が恵まれたのです。
 裕一のモデルとされる古関裕而氏は、終生、自身の戦中の仕事に責任を感じていたと伝えられます。戦後に古関氏が生み出した数々の曲の根底には、当人の後悔の呻きが響いていたのかもしれません。表に見えるものだけがすべてではなく、すべてを想像できるものでもありません。人と生きるということは、思いが及ばない過去や内奥まるごとへの敬意を持ち続けることなのでしょう。(住職)■

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