「悔しみ」上等(2020.9)


親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。(歎異抄)

 実に面白い本が発刊されました。梨うまい著『悔しみノート』(祥伝社)。映画や芝居の感想レビューがメインのエッセイ集です。もちろんそれらの文章もですが、それと同等に面白いのが、この本の出版経緯です。始まりはラジオ番組の一コーナーでした。

  どうしたらいいい

 TBSラジオで平日昼間に放送している「ジェーンスーの生活は躍る」。ここにお悩み相談のコーナーがあります。ここに一昨年の九月、ラジオネーム「梨うまい」さんから一通のメールが寄せられました。一部略して紹介します。
「今年で二十四歳、何をどうしたらいいのか全然わかりません。勉強と創作が大好きで、高校まで勉強しまくって大学は思い切って芸術系に進学。卒業後もフリーで活動していましたが、どれだけやっても全く満足できず、どんどん自己嫌悪に陥り、心身ともに調子を崩してしまいました。(略)実家に半強制的に戻って間もなく半年。現在は順調に健康を取り戻し、本屋さんでバイトをしています。しかし同時に、良い映画を見たり、良い音楽を聴いたり、良い本を読んだりしては、こういうことがしたかったのに、と悶え、しかしモノづくり地獄に耐えられず逃げ出した自分にはもう何もできないと落ち込む日々でもあります。やぶれた夢に未練たらたら、劣等感でいっぱいです。芸術方面のみでなく、面白くないのに面白そうな顔をしたり、好きでもないのに褒めたり、付き合いで飲めない酒を飲みに行ったり、といったことができなかった。(略)こんな風に、自分が辛いということばかりしか言えない自分にもガッカリします。人のことで悩めたらいいのに、(略)わがままで甘ったれな考えですよね。みんなどうやって生きているんですか?気休めでもいいからこういうの向いてるよ、とか誰かに言ってほしい。(略)」

  悔しい思いを逆手に取って

 これに対してジェーンスーさんはこんなアドバイスをしました。
「二十四歳で挫折するのは当然。むしろ順調くらいに思っていい。自分の思いあがりを打ち砕かれるのが社会人の第一歩。メールからはあなたは書ける人と思う。悔しい思いを逆手に取って、今日から、悔しく思った作品について書きつける『悔しみノート』の作成を命じる。一年間書いて番組に送ってほしい」
 そして一年後、昨年の十二月。番組に手書きの「悔しみノート」が届きます。筆者はもちろん梨さん。ジェーンスーさんはその中から二編の文章を紹介した上で、「この文章は世に出した方がいい。出版社の方、よかったら番組まで連絡をください」と呼びかけました。するとすぐに六社から反応。交渉の末に祥伝社からの出版が決まり、この九月二日に書店に並ぶこととなりました。

  「自分」に呑み込まれないために

 『悔しみノート』には、映画や芝居やテレビ番組や本など、芸術芸能作品に著者が触れたときの感想と感情が綴られています。しばしば乱暴なことばを散らしながらもそれが不快ではないのは、底のところでそれを作品という形になしえた者への敬意があるからでしょう。また、未だ何も成しえていない自分、悔しさや嫉妬を抱かざるをえない自分への嫌悪が全編に漂いますが、それも時には笑いを誘います。それは、それらのマイナス感情が表に出されたことの効果に違いありません。
 著者の最初の相談メールが読まれた時、ジェーンスーさんはまずこう応えました。「今回、自分の気持ちをこうして文章にして自分の外に出したことは問題解決のための第一歩」。認めがたい感情や許しがたい思いは、まず外に出す。形にする。そして見る。受け止める。自分の内部だけで完結させないことは、自分に呑み込まれないためには大切なことです。それは私にはまるまる、お念仏のはたらきに通じるように思います。

  「そのまま」が「このまま」を解く

 思い出すのは親鸞聖人と唯円の会話です。親鸞聖人のお弟子・唯円は常々、念仏を称えても勉学を積んでも、浄土に往生することの喜びは心底からは湧いてこないと悩んでいました。自分の執着心がどうしようもなく強いと嘆いていました。ずっと秘めていたその思いをある時、唯円は親鸞聖人に吐露したのです。
 このシーンを以前の私はあまり重要視はしませんでした。誰もが持つであろう素朴な疑問を口にした唯円は素直な人だったのだなという程度の感想でした。しかしそれははっきり誤読だったと今は思います。自分の人生、全生活全能力を賭けて追求してきたのに、いや追求するほどに悟りも往生も遠のくように感じることの自己嫌悪・悔しみ・コンプレックスがいかばかりだったか。
 そこからついに溢れだした自己批判のことばに対して、親鸞聖人は「お前もだったのか。実は私もそうなのだよ」と応えたのです。それは唯円をどれだけ驚かせたことでしょう。どれほど救ったことでしょう。
 本来なら邪魔で無益なあれこれに執着してしまう自分。阿弥陀如来はそんな私を叱るでもなく見捨てるでもなく、呼びかけます。「そういうあなたでしたね」。そのままをそのまま受け止めるところから、「このまま」に絡みとられた自分が解けていきます。
 本の帯にはジェーンスーさんがこんな言葉を寄せています。「恥ずかしくて、情けなくて、誰にもいえないけど、誰かに聞いて欲しい言葉って、なんでこんなに刺さるんだろう。私はもう、こんな風には悔しがれない。あなたが心底うらやましい」そう、悔しみ上等。(住職)■

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