あの事件をめぐって(2019.6)


わが心の良くて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし  (歎異抄)
  5月28日、川崎市の登戸で発生した19人殺傷事件。加害者の自害により動機などが不明なこともあって、憶測に基づいた様々な意見が飛び交っています。加害者が中年のひきこもり男性であったことから、自死念慮があったのでは、これは他者を道連れにした拡大自殺ではないか、という見方も広まり、「死にたいなら一人で勝手に死ね」という言葉がネットやテレビで発せられました。
 それに対し、「そういう非難は控えてほしい」といちはやく主張したのは貧困問題に関わる藤田孝典さん。「次の凶行を生まないため」とのこと。生き辛さを抱えている人に対して、「社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。 人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない」と言います。

惨事を繰り返さないために

 また、「こころぎふ臨床心理センター」の長谷川博一センター長も、「一人で勝手に死ね」ということばの危険性を指摘します。「そういう言葉は、死にたい人に『死ね』と言っているに等しい。言っている人たちは、他者を巻き込んだ人という部分だけを見ていて、事件全体を俯瞰的に見ていないのだと思う。自殺を考える人をどのように減らしていくかを考えるのが事件の本質。社会全体が考えていくべき問題と思います」。
 自殺対策支援センター・ライフリンクの清水康之代表は、こうもおっしゃいます。「同じような事件や惨事を繰り返させないためには、社会全体として、そもそも『人間が命の瀬戸際に追い込まれることのない社会(環境)』を作る方向で対策を進めていかなければならない。『窮鼠猫をもかむ』ではないが、社会の中で命や暮らしが追い詰められたとき、そのリアクションとして、社会に対して恨みを抱き、暴力性が内にではなく外に向かって、『誰でもいいから』と殺人を企てる人を皆無にはできないだろう。そうした人たちに『ひとりで勝手に死んでくれ』と言ったところでなんの実効性もない。むしろ、生き死にのはざまに立たされている人を自殺へと追い込みかねない」

被害者の気持ちになれるか

 先の藤田さんの主張には、「きれい事」という非難も寄せられました。そして、「もし自分の家族が被害にあったら同じことを言えるのか」という声が少なからずありました。事件を俯瞰しようとすると必ず挙がるこの言葉には、映画監督の森達也さんが『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』というまさにそのままのタイトルの著作があります。その中で森さんはこう問うのです。「(被害者の気持ちになれという)あなたは本当に被害者遺族の思いを想像できているのか」「自分の愛する人が消えた世界について、確かに想像はできる。でもその想像が、被害者遺族の今の思いをリアルに再現しているとは僕には思えない。あなたはその思いを、自分は本当に共有していると胸を張れるのだろうか。ならばそれこそ不遜だと思う」。
 森さんの思いに私も同意します。事件報道に接すると、心が痛みます。被害者とその関係者の苦しみが我が物になった気持ちにもなります。しかしそれははっきり、錯覚です。非当事者の想像は非当事者の想像でしかなく、当事者の思いが分かると思ってしまうのは傲慢なことと知っておきましょう。分からない。だから他人事、なのではなく、非当事者だから出来ることがあるのです。それを粛々として担っていきたく思います。 事実に則って  さて、今回の事件の加害者が「ひきこもり」だったということから、ひきこもりの人が犯罪予備軍であるかのように受け取れかねない報道も見受けられました。それらには、ひきこもりの当事者団体「一般社団法人ひきこもりUX会議」から、主にマスコミに対する声明文が出ています。一部を紹介します。
「私たちが接してきたひきこもりの当事者や経験者は、そうでない人たちと何ら変わりありません。『ひきこもり』かどうかによらず、周囲の無理解や孤立のうちに長く置かれ、絶望を深めてしまうと、ひとは極端な行動に出てしまうことがあります。事件の背景が丁寧に検証され、支え合う社会に向かう契機となることが、痛ましい事件の再発防止と考えます。特定の状況に置かれている人々を排除したり、異質のものとして見るのではなく、事実に則り冷静に適切な対応をとっていただくようお願い申し上げます」
 このたびもまた、親鸞聖人のことばが響きます。「わが心の良くて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし」  (住職)■

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