彼になれなかった彼のこと(2019.3)


漁師・商人、さまざまの者は皆、石・瓦・礫のごとくなる我らなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取の光の中に収め取られまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはち漁師・商人などは、石・瓦・礫なんどを、よく黄金となさしめんがごとしとたとへたまへるなり  (唯信鈔文意)
  映画『ボヘミアン・ラプソディー』。の大ヒットによって、ロックバンドのクイーン人気が再燃しています。今では堂々たる伝説のロックバンドという位置にあるクイーンがデビューしたのは私の中学時代。当時の音楽好き少年たちにとってのロックスターは、ハードロックの王道、レッドツェッペリンとディープパープルが二大巨頭でした。そんな中学生の耳にはコーラスワークを前面に出したクイーンの音楽にはいまいち人気がありませんでした。同時代にいながら、その価値を知ったのはずっと後のこと。

光と影

 で、『ボヘミアン・ラプソディ』。クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画です。フレディを演じたラミ・マレックがアカデミー賞主演男優賞を受賞し、こんなスピーチをしたことも記憶に新しいところです。「私はエジプトからの移民の子です。私のストーリーは今描かれている最中です」
 この映画は、差別されてきた移民の子であり、親からも認められず、容姿にコンプレックスがあり、エイズに罹患し、当時のイギリスではほんの数年前まで違法でさえあったゲイでありながら、特定の女性に生涯思いを寄せたフレディの、何重にも及ぶ屈折とそこからの解放を描ききったと評されます。それは確かにそうです。でも、主人公のフレディの栄光があまりにまぶしいあまりに、フレディと同じような苦難を背負いながら、時代の中で苦渋に沈んでいった名も知れぬ多くの人々がいたことが忘れられることを危惧します。映画の製作者はおそらくそのために、ポール・プレンターという悪役を配したのでしょう。映画『ボヘミアン・ラプソディ』において、唯一最大の悪役を担った実在の人物です。

フレディに音楽がなかったら

 映画においてボールは、フレディにゲイを自覚させて最愛の恋人と別れさせ、フレディに独立話を持ちかけてバンドが分裂休止する原因を作り、フレディの体調にかまわずパーティーを重ねて病に罹患させ、チャリティーイベントのライブエイドの要請も隠し、クビにされればゴシップネタを売りとばしすなど、最低の人間として描かれます。そんなポールは「ベルファルト出身のカトリックでゲイ」でした
。  ベルファルトを首都とする北アイルランドではカトリックは迫害された少数派であり、だから余計に内部での信仰は強固になります。しかしカトリックではゲイは存在自体が忌み嫌われるばかりではなく、当時は犯罪でさえありました。そんな中にゲイとして生きてきたポールは、地域からも、教会からも、法律からも、家族からさえも排除をされます。「スターにならなかったフレディ」なのです。底知れぬ孤独にあったに違いない彼は、フレディと同じ年にやはりエイズで亡くなっています。実在の人物なのにあんなに悪役として描かれたことに彼の遺族や親戚は抗議をしないのか、との心配は悲しいことに不要でした。彼を大事にしているような遺族は存在しない模様です。
 映画はフレディの、家族、仲間、恋人、友人、そして自分自身との葛藤と和解の物語です。この映画のヒットが、マイノリティを理解し、受容するまなざしの反映とするならば、それは希望に違いありません。しかしその裏に、和解に至らなかった多くの者の存在があることへの想像も欠かしてはならないでしょう。

そのままで光かがやく

 親鸞聖人は「漁師・商人、さまざまの者は皆、石・瓦・礫のごとくなる我らなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取の光の中に収め取られまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはち漁師・商人などは、石・瓦・礫なんどを、よく黄金となさしめんがごとしとたとへたまへるなり」とおっしゃいました。世間や当時の価値観からは、意味も価値もないと虐げられていた人びとを「我ら」と押さえ、それらをそのまま同じ光とし、黄金の価値と意味のあるものとして見い出していく眼を阿弥陀さまは育まれると喜ばれたのです。そのままが尊ばれる世界。それを私たちは少しでも実現できているでしょうか。(住職)■

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