割り切れないし、割り切らない(2018.12)


真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。 しかればすでに僧にあらず俗にあらず。(教行証文類)
 2018年を振り返り。漢字一字では「災」が選ばれましたが、私が今年観た映画やドラマの中から一本選ぶなら『半分、青い。』を挙げます。今年九月まで放送されていたNHKの朝ドラマ。「そりゃないなー」という大きな欠点があったので大傑作という賛辞は避けますが、私にとっては『あまちゃん』以来の快作。
 主人公の女性・鈴愛(すずめ)の、生まれてから四十年間を描いたドラマ。表面的には「不器用な女性がいろいろな困難に見舞われながら『自分らしさ』を獲得していく」のが主テーマのようでしたが、裏テーマとして非常に深いものが複数提示されていました。それはまず「死者との日常」、次に「障害の日常化」です。いずれも非常に浄土真宗的です。

  悲しみが支えになる

 前者の際立ったシーンを紹介します。
 鈴愛を幼い時から見守っていた近所のご夫婦、弥一と和子。その和子が病で亡くなります。弥一はひとり写真館を営みながら、時間がある時はコーヒーを淹れ、一見穏やかに暮らしています。その様子を見た友人が声をかけました。「弥一さんは強いな」。連れ合いを亡くした悲しみを乗り越えた姿と見えたのでしょう。それに対して弥一は微笑みながら応えます。「そんなことはない。毎日泣き通しだよ。でも僕は、悲しみを乗り越えるのはやめたんだ。悲しみと共に生きていくんだ」。
 最愛の人を亡くした悲しみは底知れない。苦しい。しかしその悲しみや苦しみは克服する対象ではない。悲しみは大切な人との生活の証。悲しみの深さはそのまま、与えられたものの大きさ。それを認めたとき、悲しみ自体が、今の自分の支えにさえなりうる、ということを教えています。最愛の人は、自分の悲しみとなって今ここにいる。「不在」という形で存在しているのです。

  みんなここにおるよ

 そしてもうひとつ、最終回のシーンも印象的でした。  鈴愛は新型の扇風機を開発し、その日はお披露目のパーティーです。集まったのは、幼なじみ、親友、近所の住民、親戚、家族。人びとの前で鈴愛はお礼のスピーチをします。「みんな、今日は集まってくれてありがとう。ここにいる人も、いない人も」。いない人とは亡くなった人です。具体的には祖父・仙吉、祖母・廉子、近所の和子さん、親友の裕子。それら亡くなった大切な人々に思いを馳せた鈴愛に、母親の晴が声を掛けます。「違うよ、鈴愛」「みんな、ここにおるよ」。その言葉を鈴愛はにっこり「ああ、そやね。そやったね」と受け入れるのでした。亡き人々は今も、いつでも、自分を支えている。自分はいつも見つめられている。その実感が、人を強くします。

  日常の豊かさ

 裏テーマのもう一つ、「障害の日常化」。鈴愛は幼い時に病のため片耳の聴力を失います。それは大事件ではありましたが、その後の物語の中で大きなエピソードを生むことはありませんでした。それに対してネットではこんな評が見受けられます。「聴力障害の設定って必要だったの?」「伏線が回収されていない」これらの反応は、日本社会において障害が未だに「特別」であることを示しています。ドラマに障害者が登場すると、そこに何か「意味」があるのだろうと視聴者は身構えます。「そこに障害者がいる必然性」を探ってしまいます。「普段いないはずの者・目にしない者」がそこにいる特別感を持ってしまうのです。しかし本作で聴力障害は、日常の一要素でした。それは先の「死」も同様です。そもそも、ナレーターが鈴愛の祖母・廉子。彼女は物語の冒頭に亡くなります。つまりこの作品は、死者のまなざしを日常に受けながら展開したのです。

  割り切らない生き方

 タイトルの『半分、青い。』に私は、親鸞聖人の「非僧非俗」を重ねます。法然上人・親鸞聖人が広めた念仏思想は人の平等を拓くものでした。それを危険視した時の上皇は、念仏者から僧の立場を剥奪します。その時親鸞聖人は、自らの存在は権力からの認許など不要、権力による僧だの俗だのとの判断を拒否するとして、「私は、あなたがたが規定する僧侶でも俗人でもない。ひとりの念仏者である」と宣言をされました。
 人は多面的な存在です。そのいずれの面をも尊んでいく眼をお念仏は育てていきます。青いと分かっているのは半分、あと半分には自分でも気付いていない無限の色が輝きます。全部がこれと割り切れない、いやあえて割り切らない、今を生きる我が身がここにある。『半分、青い。』はそんなことを確認させてくれました。(住職)■

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