彼にはまだ語るべきことがあった(2018.9)


かの罪を造る人は、みづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。(教行証文類)
 短い詩をひとつご紹介します。

「合掌」
夜明け前ふと気付くと
月影がわずかにまたたいている
小さなか弱き光でも美しく
埋もれた悲しみに寄り添う気高さに
静かに手を合わせます。

 この詩の作者は井上嘉浩氏。オウム真理教の幹部として一連の事件に関わったことが認定されて死刑判決を受けた人物です。
 オウム真理教での井上氏については多くの報道があります。高校在学中の16歳で入会。18歳で出家すると、「修行の天才」との異名をとるほどに宗教活動にのめりこみ、たちまち麻原教祖の側近に上りつめます。伝道者としても一千人以上の信者を獲得した井上氏。地下鉄サリン事件事件当時は25歳。逮捕された信者の中ではいち早く反麻原の姿勢を表明し、厳しく教祖と対決したその姿からは過激さが目立った記憶があります。それと冒頭の詩から受ける印象とはかなりの乖離を感じるのではないでしょうか。

出会いが人を変える

 その変化を知る上でひとりの重要な人物がいます。真宗大谷派・浄専寺の平野喜之住職。平野住職と井上氏はたまたま同じ高校の同窓生でした。その高校の教師からの頼みもあり、平野住職が初めて井上氏と面会をしたのが2006年。高裁で死刑判決を受けてから2年後のこと。その時の井上氏からは罪の自覚があまり感じられなかったと平野住職は言います。「教祖に騙された」という思いが強かったとのこと。
 しかし交流を重ねる中で、井上氏に変化がありました。まず井上氏に響いたのが、差し入れした『カラマーゾフの兄弟』の次の一節だったそうです。「人は誰でもすべての事に就いて、すべての人に対して罪があるのです」。次第に「麻原を教祖に仕立てた自分の責任」「自分が勧誘したり、寄進をさせた人びとへの罪」を口にするようになったというのです。
 その後、次第に浄土真宗のことばにも耳が開いていきます。井上氏は親鸞聖人の著書『教行信証』の中にある、殺人罪に苦しむアジャセという王の物語に自分を重ね合わせ、深く読み込んでもいきました。

個としての責任の欠如

 井上氏と平野住職との交流は、十二年間、毎月二回の文通と、計三十回ほどの面会により重ねられました。その過程で井上氏は自身の心境を詩にしたためるようになりました。もう二篇ご紹介します。

「いのちの大海」
何処にも拠りどころをつくることなく
宙ぶらりんに己を投げ出せば
そこは何もない空っぽではなく
人間の想像を遥かに越えた
悲しみと喜びが平等に瞬く
生死を織りなすいのちの大海
(二〇一八・五・六)

「月影」
月影に
照らされ浮かぶ
ものはみな
気づかぬままに
見守られてる
(二〇一七・十一・八)

一人一人が人として成熟していく道

 今年二月、一連のオウム裁判の終結後に井上氏が記した「内省」文では、被害者への謝罪とともに、自分が事件を起こしてしまった心理をこう記しています。
「オウム事件は、『私』を否定して『公』のために尽くすことを美徳とする日本人特有の民族性にも根ざしたものであったのではないでしょうか。私の中にこのような全体主義に同調してしまう素地があったからこそ、麻原にも同調してしまったのであり、個としての責任の自覚を欠如してしまったのは、私自身に問題がありました」
 この分析は、現代只今の日本と無関係とは思えません。日本社会はオウム事件から何事も学ぶことなく今日まできてしまったのでしょうか。
 「内省」にある次の記述からは、拘置所内で彼が生き直しつつあったことが伺えます。
「罪をめぐるいのちの痛みと悲しみをじっと静かにかみしめていると、どこからともなくいのちの眼差しを感じます。そのようないのちは、私のものでも、誰のものでもなく、人間が作り出すどのような罪や過ちも、悲しみや苦しみももれなく受け止める底知れぬ愛に満ちながら、同時にどこまでもじっと黙って見つめ、突き放し、一人一人が人として成熟していく厳しさがあると感じます」
 井上氏は、事実認定に誤りがあると、再審を請求中でした。その途上での刑執行は、事件のより深い解明や、類似事件の発生防止をむしろ阻害したものと私には思えます。
 冒頭の詩が書かれたのは今年六月二九日。その一週間後に自身の死刑が執行されることをまだ知らない時でした。(住職)■

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