「目的」に惑わされないで(2018.3)


本願力に遇いぬれば 虚しく過ぐる人ぞなき    (高僧和讃)
  趣味は何ですか、ときかれたら、しばらくの間、私は「献血」と答えていました。
  特に二十代の頃は時間もあり、八王子に献血ルームがあったという利便性もあって、制限期間(全血四百?の場合は、献血をしてから次回までに四ヶ月以上空けなければなりません)が過ぎるのを待つように献血をしていました。 もちろん誰かのためになればという気持ちもありましたが、無料で詳細な血液検査をしてもらえること、献血後にはお菓子や飲み物をもらえることが魅力でした。血を抜くこと自体に少し快感を覚えていたことも事実です。
  献血に成分献血(血液中から必要な血小板や血漿だけを取り出して、残りを体に戻す方法)が導入されると、制限期間が一気に縮まります。全血だと年間で最高三回しか出来なかったのが、成分献血だと年間二十四回可能になったのです。とはいえ成分献血は一回に一時間半ほども時間が取られるのでそう頻繁には行けないのですが、それでも回数は飛躍的に増えていきました。

冷めてしまった訳

そんな私、現在はほとんど献血をしていません。年に一回か二回。 献血の熱が冷めてしまった原因ははっきりしています。献血の通算回数が一区切りついてしまったのです。
 二〇一六年八月、通算回数が百回になりました。赤十字から、そして献血ルールからもそれぞれ記念品をいただきました(その両方ともなぜか酒器。血液数値から私の好みを察したわけではないでしょうが)。それから献血への意欲がさーっと引いてしまったのです。
 通算回数が九十回を越えたあたりから、献血の第一の目的が血液検査でも他者協力でもなく、百回達成になってしまっていたのです。そう意識してから皮肉にも、献血をできない状況が続きました。この歳になると体に不調が出ますが、薬を服用していると献血できないのです。犬に咬まれて狂犬病ワクチンを打ってからは一年間ダメでした。また、外国からの帰国後一ヶ月もダメです。八王子の献血ルームが閉鎖されたのも痛手でした。
 足踏みがずーっと続いてやっと百回になって、つい達成感を感じてしまいました。するとモチベーションが薄れてしまったのです。百回なんてたいした数ではありません。成分献血だと最短四年ちょっとでクリアできます。また、私の友人には献血回数五百回越え(!)でまだ更新中という猛者もいるので、なおさらです。でも自分の中ではゴールとまでは言いませんが、ひとつの目標になっていたのは確かです。

梵天が勧めてくれた

 目標を設定することは、人が動き努力する動機になります。しかしそれがしばしば「目的」にすり替わってしまうことには注意が必要なようです。そうでないと目標に達しただけで達成感を得て、それだけならいいのですが、燃えつき症候群と呼ばれるような脱力を感じるようになることも。何のための目標だったのかはいつも忘れないでおきたいものです。
仏教では「さとり」を得ることが目標とされます。浄土真宗的には「すくい」「気づき」がそれにあたります。それらは目標ではありますが、「目的」ではありません。
 それは仏教の始まりのエピソードに明らかです。
  お釈迦さまは、人生の苦の解決を求めてさまざまな行を経た後に、ついに「さとり」を開きます。その時お釈迦さまはしばらく、さとりの境地をひとりで楽しまれていただけでした。その様子をみかねた梵天(万物の根源とされる神)がお釈迦さまに「あなたが知り得たことを人びとに伝えなさい」と諭すのですが、お釈迦さまは「それはあまりに困難なこと」と応じません。重ねて梵天が勧請することで、やっとお釈迦さまは伝道布教の旅に出ることになったというのです。
 さとりはゴールではないよ、そこから次の展開への入口だよ、との梵天の勧めはひとりお釈迦さまだけに向けられものではありません。
 
  絶対視も依存もしない
 
  さとる、あるいは信心をいただく、あるいは浄土に往生する、そういうことが仏教の目的だと思われがちですが、はっきり違います。それらは目的でもゴールでもありません。いわば出発点です。答ではなく、問いです。 目的点に着くと人は、さあこれからどっちに行けばいいのと迷います。また、目的点に着かないうちはいつまでも未完成。途中で果てたらそれまでの努力は無駄?いずれも「目的」を絶対視したり「目的」に依存するところから生れる錯誤な気がします。
  仏教の教え、お念仏は、狭い意味での「目的」を必要としません。自ら設定した「目的」により、窮屈になったり卑屈になったり脱力したりする私。そこからの解放を導く声が響いています。(住職)■

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