媒介物が距離を縮める(2017.12)南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり (現世利益和讃) 今年印象に残った本のひとつ、『ヒロのちつじょ』(太郎次郎社エディタス)をご紹介します。 主人公はヒロ。ヒロはダウン症。日々の暮しの中にいろいろなこだわりや決まり、秩序をもっています。それらを妹の佐藤美沙代さんがイラストとともに記録したのがこの本。なんともとぼけた空気感がただよいます。 朝は「おはよおはよ」と起きてきます。この「おはよ」はきちんと「おはよう」と返事をされるまで続きます。 丼ものを食べるときは必ず上の層の具を全部食べてからご飯に向います。 夜は、真夏でも必ず毛布と布団をかけて寝ます。洗濯物は適当にたたむヒロですが、布団はきっちりと整えます。 時間の感覚がおもしろく、「おばあちゃんの家にいくよ」と言うと、30分でも1時間でも、楽しそうに車の前で待っていられます。 兄が兄であるように そんな兄、ヒロを、10代の頃の美沙代さんは受け入れられませんでした。兄のちょっとした行動が気にさわり、兄を嫌っていたそうです。「頼れるはずの年上のきょうだいが障害をもっていて、また、そういったコンプレックスを友人に相談するのも難しく、不安がイライラになり、それをヒロにぶつけてしまっていた」と記しています。 そんな美沙代さんが変わったのは美術大学に進学して一人暮らしを始めてからです。家族と距離をとることで兄を客観的に見られるようになったのでしょう。ありのままに生きているヒロの姿から、「兄が兄のようであるように、自分もありのままでいいんだ」と思えるようになったというのです。そして、卒業制作としてつくったのが本書。自分と兄との間に、イラストという一工程を設けることは、美沙代さんとヒロとの距離をむしろ縮めることとなりました。 言葉のかわりにカメラを向けた 『ヒロのちつじょ』を読んで思い出した映画があります。 『ちづる』。主人公の千鶴は二〇歳、知的障害もある自閉症です。彼女の一年間を追ったこの作品を撮った赤崎正和監督は、彼女の兄。制作時はまだ立教大学4年でした。ドキュメンタリー映画を学んでいた彼が卒業制作のテーマとして選んだのが、自分の妹。実は赤崎監督はそれまで妹と距離をとっていたのです。妹とどう接していいかわからずにきていたのです。 小学校のときには学校で身体障害者を「シンショー」と嗤うことが流行りました。それ以来、彼は友人に妹の話をすることができなくなりました。障害者全般からも目を背けてきました。知的障害と自閉症の違いさえ分からずにいました。 「ぼくは妹のことをどう説明していいかわからない。だから言葉で伝えるかわりにカメラを向けることにした」 当初は、妹を撮ることで自閉症がどういう障害であるかを世間に知らせるという目論みがあったようです。しかし撮り進めるうちにテーマはむしろ、彼女と母、そして自分自身へと移っていきました。カメラを向けたことで初めてちゃんと見つめられた妹の姿がありました。それはまた、自分自身を映し出す鏡ともなったのです。 和解の物語 『ヒロのちつじょ』と『ちづる』、この両作品を並べてご紹介したのは、この両者ともが和解の物語であるからです。何と何の和解かと言えば、自分と自分。両作品とも、以前は嫌って距離をおいていた相手を受け入れることができた時、自分が本当に受け入れられなかったのは相手ではなく、自分自身であったことに気づきます。 ちょっと矛盾なようですが、間に媒介物をはさむことで、 より二者の距離が縮まることがあります。関係を結ぶためには、近づくだけでは不十分。一本の補助線を引く。あるいは異物を介入させる。それが関係の活性化を誘うことがあるのです。その補助線もしくは異物が、美沙代さんにとってはイラストであり、赤崎監督にとってカメラでした。 そしてその同じ役割を、宗教、特にお念仏は有しているのだと私は思います。 お念仏は、自分が称えていながらそのまま、仏さまの声です。自分の声がそのまま自分への呼びかけの声になるのです。その声を聞いたとき、自分を誰よりも縛っていたのは自分自身であり、それを解こうとのはたらきがすでにここに届いていたことを知らされます。 お念仏は日常の中では正直、「異物」でしょう。しかし「異物」に背中を押されるのも悪くないのでは。 『ちづる』、一月二六日にアミダステーションにて上映します。よろしかったらご一緒に。 [住職] |