無畏という施し(2017.6)


ことごとく、よく、有無の見を摧破す (正信偈)
 言葉とは不思議なものです。たった一言で人のいのちを奪うこともあれば、たった一言で瀕死の人を救うこともあります。
 現在は鬱病専門のカウンセラーを務める澤登和夫(さわとかずお)さんはまさに一言に救われた経験をお持ちです。
 エリートサラリーマンだった澤登さんは、激務をこなせない不安から鬱病になってしまいます。夫婦関係にもひびが入り離婚。社会人としての自信をすべて失った澤登さんは、マンションの最上階から飛び降りてしまいます。幸いにして澤登さんは足を骨折しただけでした。しかし足のケガが癒えた頃、今度は潰瘍性大腸炎という病気により、大腸を全部摘出することになります。
 心身ともに深いダメージを負った澤登さんは常に死を考えるようになります。そんなある日、電車の中で座っていると、前に高齢の女性が立ちました。まだ手術から日が浅い澤登さんはとても席を譲れる状態ではなかったのですが、それでもふっと譲る気がわき、どうぞとその女性を座らせたところ、女性は澤登さんに満面の笑みとともに「ありがとう」と感謝してくれたのです。
 その言葉がどん底にいた澤登さんの胸に染み入ります。「ありがとう」という一言が「自分がここにいてもいいんだ」という存在の承認に聞こえたのです。ただ自分を全否定するばかりだった澤登さんでしたが、それをきっかけに、少しずつ自分はこれでいいんだと受け入れることができるようになり、次第に鬱病から回復していきました。  席を譲られて澤登さんに「ありがとう」と笑顔した女性は、大層なことをした自覚はまったくなかったでしょう。また、澤登さん自身も「ありがとう」という言葉はそれまで別の場面で何回も耳にしていたはずです。しかしその同じ一言が、時と場合、縁によって、人ひとりのいのちを救ったのです。

足りないのは

 人に自分が持っている何かを差し出すことを仏教では布施といいます。
 自分には差し出せるものは何もありませんという人がいます。財産もない。際立った能力もない。時間もない。いえ、布施ができない方などどこにもいません。先ほどの澤登さんの例では席を譲ったのは「床座施」という布施行にあたります。「ありがとう」と声をかけたのは「愛語施」。笑顔を向けたのは「和顔施」「慈眼施」です。
 自分には他に施す力がないと言う方が本当にないのは、財力や能力ではなく、想像力でしょう。自分が多くの人とつながっていて、その網の中を自分の行為の影響が伝わっていくことに思いを馳せる想像力。私たちははかり知れない縁の中に生きています。それを、自分の力はここまで、自分がつながっているのは誰と誰だけ、と限定してしまうと私たちのいのちはずいぶんとちっぽけで窮屈なものになってしまいます。
 親鸞聖人は『正信念仏偈(正信偈)』の中にこうお示しです。
 悉能摧破有無見(ことごとく、よく、有無の見を摧破す)
 これは有る、あれは無い、と決めつけ、固定化してしまうものの見方を親鸞聖人は「有無の見」と呼び、誤りであると教えます。
 自分を自分でふりかえると、それはけっして立派なものとは思えないでしょう。無力感に苛まれることも少なくないと思います。でもそれも有無の見のなせることでしょう。私の存在も行為も、私の判断や想像をはるかに超えて、大きくひろがっていきます。その中では、私は知らない人に支えられ、また、見知らぬ人を支えているのです。

無畏という施し

 仏教では布施の代表的なものとして、法施、財施、無畏施を三施と挙げています。法施は法を説くこと。財施は財を施すこと。そして無畏施は、人から不安や恐怖を取り除き、恐れのない状態にすることです。と言うと、とても自分にはできることではないと思ってしまいまうかもしれません。しかし、人の恐れがどこから生まれるかを考えれば、決して特別なことではありません。
 どん底にいたときの澤登さんの恐れは「こんな役立たずの自分が生きていていいわけがない」という無価値評定からくるものでした。その評定をくだしたのは他ならぬ自分です。しかしそれが単に狭い眼、有無の見に基づいたものであったことを自分では気づけませんでした。それを破ったのが女性の「ありがとう」だったのです。その一言が、どこにも居場所を見出せないという恐れから、澤登さんを解放しました。そして澤登さんは、同じ恐れをいだく人に寄りそう活動を始めたのでした。
 人知れず恐れを抱いている私たちにも、いつか「ありがとう」は訪れるのでしょうか。はい。いつかではなく、今、呼びかけられています。阿弥陀如来からの「南無阿弥陀仏」という声として。それは、私の口を通して届いてくださっている無畏施の声です。「恐れることはないよ、そのままの君を私はいつも見守っているよ」と。そして「君がいてくれて、ありがとう」と響いています。[住職]

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