友引でもお葬式(2016.12)


極重の悪人はただ仏を称すべし。我もまた彼の摂取の中に在り。煩悩眼を障えて見たてまつらわずといえども、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたもう (正信偈)
この冬から、八王子の市営火葬場は友引の日も稼動することとなりました。
ご承知の通り、火葬場は友引の日を休業にしているところが少なくありません。理由は、友引は「友を引く」=故人が知り合いをあの世に引っぱっていく、と連想されることから葬式を避ける人が多かったため、結果としてその日を休業日とするようになったと言われています。

友引も仏滅も仏教と無関係

しかし言うまでもなく、友引や大安、仏滅などの六曜は占いの一種にすぎません。中国が発祥とされていますが、そのもともとの意味からしても、「友引」は「ともに引き分け」のことであって、「友を引く」ことではありません。また、「仏滅」と書くことから仏教が発祥と思われがちですが、これはもとは「物滅」と書いたものです。仏教とは何の関係もありません。二重三重の誤解と思い込みによって影響力を得たのが六曜とも言えそうです。
このたび八王子市営火葬場が友引営業を始めたのは、迷信にとらわれていたのを改心して、というわけではなく、単純に需要増に対応してということですが、六曜にとらわれないよう言い続けてきた浄土真宗門徒としては、歓迎です。定休日がなくなるのは予定を立てづらくなるというちょっとの不便はありますが。

鎌倉時代から変わってない

親鸞聖人にはこんな和讃があります。
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祗をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
(なんと悲しいことであろう。出家のものも在家のものも、日の善し悪しを選び、天地の神々を崇めながら、占いや祈祷を日々のつとめとしている)
日の善し悪しに右往左往していた鎌倉時代の人びとと今の私たち。それほどの違いはないように見えます。この年末年始にも大寺院や神社には多くの方がお参りされますが、その動機とするところは、我が身第一、自分の都合第一という願いでしょう。親鸞聖人はそこに悲しみの眼をそそがれたのでした。あなたは自ら迷いを深めていませんか、仏教を自分の欲望充足の道具と勘違いしないでください、仏教は良時吉日などに縛られているあなたを解放する教えですよ、それを促しているのがお念仏ですよ、とお示しくださいました。

いつでもどこでも

近年はちょっとした仏教ブームで、テレビのバラエティ番組にもお坊さんの姿をよく見るようになりました。人気のお寺ランキングなどもたびたび紹介されています。しかしそういう企画では、浄土真宗のお寺は上位にあがることはほとんどありません。
ランキングの上位になるのは二つの傾向があるようです。 第一は「今だけ」企画。今なら普段は拝めない仏さまが拝めます、今だけ特別な接待が受けられます、そんな期間限定の特別拝観・御開帳というのはやはり人気が高くなるようです。
そして第二には「ここだけ」。ここのパワースポットに来たらこんな御利益があります、ここの仏さまを拝むとこんないいことがあります、そういう効き目があるとされるお寺もまた、ランキング上位に入ります。
浄土真宗はどちらの方法も採用しません。浄土真宗には「今だけ」はありません。お念仏は「いつでも」「誰にでも」公開されています。 そして「ここだけ」もありません。お念仏があるところは「どこでも」。 いつでもどこでも、いまここが私の居場所ですと落ち着ける。いまこの私が私ですとうなずける。日の善し悪しを選ぶ必要がない。というか、日の善し悪しなどそもそもなかったのだと気づかされる。そのことこそ確かな御利益ではありませんか。

現世利益ありますよ

浄土真宗には現世利益はないのですよね、と尋ねられることがあります。たしかにお守りなどは一切お配りしませんし、祈祷もしません。
しかし浄土真宗には大きな、確かな現世利益があります。
親鸞聖人の和讃をもう一つご紹介します。
南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり
(念仏の響きはいのちの響き。私の周りのすべてが、いのちとなって、私の存在を認め、祝福している)
この私と私を取り巻く現実を確かに受け止めることができるという利益。これこそが本当の、そして実質的な現世利益だと思うのですがいかがでしょう。 [住職]

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