それ、印象じゃない?(2016.10)


極重の悪人はただ仏を称すべし。我もまた彼の摂取の中に在り。煩悩眼を障えて見たてまつらわずといえども、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたもう (正信偈)
8月23日、人気の若手俳優が強姦致傷容疑で逮捕されました。
その後9月9日に彼は不起訴となりますが、私が考えたいのは、逮捕直後に繰り返し流されたこんな報道です。
「容疑者は前橋署内の留置所では取り乱す様子もなく、通常通り淡々と過ごしている。同署によると、23日夜は涙を流すなどの動揺した様子も見せず、夕食の仕出し弁当をペロリと平らげた」(スポーツ報知)
この記述から浮かび上るのは、「図太い神経」「ふてぶてしい」「無反省」という人物像ではないでしょうか。特に「ベロリと平らげた」という表現に、それが強調されています。
しかしこの記述が示している「事実」は「食事を完食した」だけにすぎません。もしかしたら、残しては申しわけないという感情がそこにあったという可能性もあります。
仮に取材対象が大寺院だったとして、そこの僧侶たちが食事を残さずに頂いている姿について「飯をペロリと平らげていた」とは表現しないでしょう。「ペロリ」というのは「印象」です。印象には発信者の感情や意図が少なからず付与しているものです。
情報には往々にして「事実」と「印象」が混在します。事実の羅列では無味無機質となりがちなところを印象で補おうとするのは一概に悪いことではないでしょうが、印象が事実を歪めてしまうこともありえます。
不起訴となった俳優が釈放された時の報道では、俳優が報道陣を睨みつけたと非難をされました。確かにその時の写真では、何かに鋭い目を向けているように見えます。
しかしその場面を動画で確かめてみると、彼はずっと表情を固く変えないまま車に移動しており、その間に報道陣から声を掛けられて顔を向けただけです。その一瞬を切り取ると、「反抗的」で「無反省」な睨む印象の姿が出来上がりました。
観無量寿経では人間について「力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない」(現代語訳浄土三部経P295)とお示しです。
手近な、印象まみれの情報で作られた世界は、事実から遊離します。しかし私たちは印象から完全に自由になることもできません。だから、自分は印象に引きずられているかもしれないという振り返りを、常にし続けることが求められます。(住職)

法話のようなものINDEX

HOME