慣れよう(2016.9)


極重の悪人はただ仏を称すべし。我もまた彼の摂取の中に在り。煩悩眼を障えて見たてまつらわずといえども、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたもう (正信偈)
事情により現在は活動を自粛している乙武洋匡氏が、以前に築地本願寺でなさった講演の中で、こんなことをおっしゃっていました。
初対面の方には挨拶として握手を求めるそうです。短い手を差し出された相手は躊躇したり、とまどったり、あるいは内心の動揺を押し隠して堂々と応じたり。それらの心の動きは全部伝わるといたずらっぽく笑う乙武氏は、それらは差別心ではなくただ「慣れていない」だけだというのです。
障害者差別解消法が今年4月から施行され、障害者の社会参加が謳われて久しいですが、なかなか進んではいません。
テレビドラマの中で、障害者が単なる一脇役として登場することはありません。何らかの意味を持たされます。障害者は普通ではない「異物」とされ、特別視されるか、無視されるかのいずれかの処置を受けているのがまだ現状と言っていいのではないでしょうか。
毎年夏の終わりに放送される24時間チャリティー番組に登場するのは、例外なくけなげな障害者です。それはこの番組に限ったことではなく、大手メディアに登場する障害者の物語は往々にして美談に仕立て上げられます。
ある人はこれを「感動ポルノ」と呼びました。「ポルノ」とは、特定のグループの利益のために、対象をモノ化し、消費することを指します。番組は障害者を主役にしながら、結果的に人びとから障害者への「慣れ」を遠ざけてしまっているように思うのですがいかがでしょう。
では慣れるにはどうしたらいいのでしょう。それは、出会いを重ねるしかありません。直接の出会いがなくても、日常的に関心を持ち続けることです。面倒なことですが、人付き合いというのは、本来面倒なのだよとお釈迦さまがおっしゃっているではありませんか。その面倒を回避したところでの断絶した善意が歪んで肥大化した末に、相模原障害者施設殺傷事件があるとも私には思えます。
リオデジャネイロで、9月7日にパラリンピックが開会します。しかし注目度も関心度もオリンピックとは雲泥の差。その理由はやはり、慣れていないのですね。競技にも、障害者にも。聞いたことがない競技であっても、少しの間、テレビの前でお付き合いください。ほどなくして、「がんばってるね」などとはおこがましくて言えないアスリートたちとの出会いが待っています。(住職)

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