ありふれていることが許される場所(2016.6)


極重の悪人はただ仏を称すべし。我もまた彼の摂取の中に在り。煩悩眼を障えて見たてまつらわずといえども、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたもう (正信偈)
Kさんがうちのお寺に通われるようになったきっかけは、たまたまだったそうです。都心にお住いだったのが、ご高齢になったこともあって娘さん夫婦と同居するためにこの近所に引越しをされたKさんは、慣れない町を知るためもあってか散歩が日課になりました。
その中で、ふらりと寄られたこの寺をなぜか気に入られ、たびたびお越しになるようになったのです。
お茶を召し上がりながらいろいろなお話をしてくださいました。近ごろの出来事あれこれを始め、昔話も。以前には音楽の先生をされていたこと、さらに遡って戦争中のご苦労など。穏やかな表情からはうかがいしれないほどの厳しい体験もされたようです。

無駄だからいい

あるときKさんに、うちの寺のどこが気に入ったのですか、と聞いてみました。Kさんはいたずらっぽく笑いながら、こうおっしゃったのです。「ここはね、私にとって無駄な場所なの。なんでもない場所なの。だからいいの。落ち着くの」 「無駄な場所」。
それだけを文字にするとなにか貶されたと受け取られるかもしれません。しかしそのときのKさんのことばは、穏やかな笑顔とともにすとーんと私の胸に落ちました。とても嬉しく響いたのです。
現代人は「無駄」が苦手です。実は私も苦手です。「目的」や「意味」や「効率」をつい求めてしまいます。
公園に行けばこんな注意書きがまず目に入ります。「ここは市民の憩いの場所です。そのため、以下の行為を禁止します。キャチボール・サッカー・ゴルフ他のボール遊び、スケートボード、自転車の乗り入れ、大声での会話・唄・・・」ここでは人びとは「憩う」という目的を達成する努力を求められているようです。

役割から離れて

「サード・プレイス」ということばをご存知でしょうか。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグ氏が提唱した概念です。
「ファースト・プレイス」、第1の場所は家庭です。「セカンド・プレイス」、第2の場所は職場や学校。いずれも、ある目的を持って身を置くところです。そしてそこで人は「役割」を要求されます。家庭では「夫・妻」「親・子」。職場や学校では「職業人」「学生」。役割は人を安定させます。しかし一方で人を限定し、縛ります。
役割が定められた場所しか持たない人は、窒息してしまうというのです。だから現代人にはサード、第3の場所が必要だとし、そこは「経済的・社会的地位は意味がなく、ありふれていることが許される。参加するために、何も必要条件や要求がない」と定義されました。
「ありふれていることが許される」ってほっとします。個性的でなくていい。ことさらに主張しなくても存在を否定されない。何者でもない自分でいられる場所。そこにいると人は自然に「機嫌がよくなる」のだとか。これはまさに、Kさんがおっしゃった「無駄な場所」そのものと思います。

縁側へどうぞ

お寺はサードプレイスになりえると思います。役割や目的を求められない場所。というと、お寺には聞法や布教、あるいは儀式執行や墓地管理という「目的」があるじゃないか、とお叱りを受けそうです。ではそこで語られ、伝えられる法=阿弥陀さまのお心をうかがえば、「何にもない、そのままの貴方で尊いよ」とのお呼びかけでした。
仏教にふれることは、「もうひとつの眼をめぐまれる」ことです。ここでの眼とは、価値観であり、常識です。与えられた役割に安住し守られている私たちは、次第にそれらと同化し、役割と自分が不可分になり、手放すことに恐怖を抱かずにはいられなくなります。
しかし役割は自分自身ではありません。一歩立ち位置を変えただけで、何の意味もなくなることもあります。その時に自分自身の意味も同時に失われるように感じがちな私たちに、仏の眼は、ひとつの価値観や常識にとらわれるなよ、と世界を開いてくださるのです。
延立寺では、八王子駅前の東町に「アミダステーション」という施設を持ち、広い意味での念仏弘宣(自他ともに心豊かに生きることのできる世界の実現)を願って、市民活動などにもご利用いただいています。ここの別名を「延立寺縁側」としました。風が通る中で、縛られることなく拒否されることなく、いつでも腰かけられる場所。ここで、また犬目の寺で、無駄な時間をお過ごしいただけることを願っています。(住職)

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