無駄はない(2016.3)


石・瓦・礫なんどをよく黄金となさしめん   (唯信鈔文意)
私、今年1月に2週間の入院をしました。 病名は右目の網膜剥離です。
視界に影ができるようになったのが昨年暮。医者に行こうと思っているうちに年末年始の休院期間に入ってしまい、休み明けに医者に行くと、かなり進行しているために町医者では対応できずに大学病院送り。生まれて初めての入院生活とあいなりました。
入院中は右目はずっとガーゼで蔽ったまま。当然何も見えません。左目は正常なので、日常生活にはさして支障はありません。

左目だけで見ているのではない

そんな中、興味深い体験をしました。今まで両目で見ていたものを片目で見るわけですから、やはり負担はかかっているのでしょう。目を使うと疲れます。その疲れが、何を見るかで違うのです。
景色を見ている分には、全然疲れません。本を読むのもそれほど気になりません。
違うのはテレビ。入院中はほぼ見る気がしませんでした。それ以上にパソコン。必要がありメールチェックはたびたびしていましたが、はっきり疲れを自覚します。
そして何より目を刺激したのは、スマートホンの画面です。これは、目が疲れるのを通り越して目の奥が痛くなります。ですので入院中の私はスマートホンの画面を見るのが怖くさえなりました。
さて、ここまでお読みになって、疲れている目は当然左目だとお思いになるでしょう。実は違うのです。左目も疲れたり痛みを感じたりするのですが、それ以上に右目が疲れ、痛むのです。ガーゼで蔽って使っていないはずの右目が。右目も頑張って仕事をしていたということでしょう。
この経験をするまでは、左目でものを見ているときは左目しか働いていない、と疑いませんでした。しかしどうもそうではなさそうです。左目でものを見るときには、左目だけでなく、右目も、そしておそらくは他の部所も全部が連動して働いて、結果として左目の視覚を生んでいるのでしょう。
目に見えて働いている部分だけが偉いのではなく、一見遊んでいる、怠けているように見える部分も他を支えているとも言えそうです。

怠け者が支えていた

そんなことを思っていたら、アリの社会について興味深い研究結果が目に止まりました。
アリのグループの中には、一所懸命に働くアリがいる一方で、かならず2〜3割程度の働かないアリがいることが知られていました。その怠け者を排除して、働き者だけにしても、ほどなくして2〜3割が働かなくなるのです。
グループの中に怠け者が生まれることは一見、非効率的で全体にとっては不利益だと思えます。しかし最近の北海道大学の研究によると、働き者だけを集めたグループといろいろな者が混在しているグループを比べると、組織を長く維持できるのは後者だと分かりました。理由は、働き者だけのグループは要員に疲労がたまった場合に共倒れになってしまいがちなのに対し、後者は疲労した働き者の交代要員として自然に怠け者が働き出すというのです。
アリは組織内に無駄な部分をわざわざ抱え込むことによって、組織全体の安全と安定を確保しているのでした。

思いも都合も超えて

働いていないものも働いている。役立たずに見えるものによって多くの他者が生かされている。私たちのいのちも社会も、私たちの判断や価値観を超えたはたらきによって回っているのではないでしょうか。 それを仏教は「縁起」と呼んできました。すべてのものは、好むと好まざるとにかかわらず、望むと望まないとに関わらず、関係を持ち合い支え合っているという世界観です。私が邪魔だと思うあの人も、私を憎むあの人も、私が知らない誰かさえ、実は私のいのちを支えているかもしれない。その可能性を常に頭の片隅に担保できたなら、それら自分の「敵」となっている人びとのことを、殲滅は望まないようになるでしょう。仲良くは到底なれないにしても。

「縁起」は「阿弥陀」

実はこの「縁起」ということばは、私たちが仰ぐ「阿弥陀如来」と源を同じくしているといわれます。阿弥陀如来の「すくい」とは、誰もが無関係ではありえないという自然の事実にうなずけることです。そうなったとき、小さな自己という部屋にこだわり、閉じこもり、縛られていた私が解放されて、眼前に広く自由な世界が広がります。それは仏教のさとりとして示される「諸行無常」「諸法無我」の体感と言っていいでしょう。
無駄なものなど何ひとつない。阿弥陀如来というお姿となって示してくださるすくいの世界は、そのことを教えることで、すべてのものを輝かせています。■

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