「愚者」は「知的」(2015.9)


何事もみな念仏の助業なり   (和語灯録)

 つい先日に一周忌を迎えた恩師、信楽峻麿先生のことばです。「何事もお念仏の助縁と心得べきなり」。どんなことも、お念仏を聞く=仏に出遇う=自分自身と向き合うためのきっかけとして尊びなさい、ささいなことも、どんなにつまらなく思えることも無駄なことは何ひとつない、という世界観。ここに浄土真宗はあります。
 この言葉は、親鸞聖人の師である法然聖人の次のことばが元にあると思われます。
「何事もみな念仏の助業なり」
 法然聖人は念仏を生活の中心におきなさい、と教えました。念仏を柱に立てれば、他のすべては相対化され、こだわりは些事になり、惑わされることもなくなる、というものです。そのこころはこうも表現されています。「浄土宗の人は愚者になって往生す」。

  痛みと自由と

 「愚」。このことばとお念仏はとても親和性があります。奈良時代の念仏者、教信は「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうに振舞ふべからず」として、偉そうな環境から距離を置きました。親鸞聖人がご自身を「愚禿」と自称したのはご承知の通りです。 
 「愚」とは、ひとつには、阿弥陀仏の智慧の光により知らされた自分のありのままの姿への痛みの表現でありましょう。
 そしてそこにはもうひとつ、世間の評価や地位や名誉などから解放された、真の自由な主体であることの名のりの意味が伺えます。
 「自由な主体としての愚」と言われても、あまりイメージができないかもしれません。そこで次ページに、あるブログに掲載されていた文章を紹介します。安達裕哉さんの「知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。」というタイトルの文章ですが、この中で使われる「知的」は、「自由な主体としての愚」ととても重なると思います。長くなりますが、引用させてください。
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少し前に訪れた大学の先生から、面白い話を伺った。それは「知的な人物かどうか」という判断の基準に関するものである。 
私達は「頭が悪い」と言われることを極端に嫌う。知性が人間そのものの優劣を決めるかどうかは私が判断するところではないが、実際知的であることは現在の世の中においては有利であるし、組織は知的な人物を必要としている。
だが、「どのような人物が知的なのか」ということについては多くの人々の判断が別れるところではないだろうか。世の中を見渡すと、あらゆる属性、例えば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。
 私がこの先生からお聞きした話はそういった話とは少し異なる。
彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、五つの態度を見ています」という。
エピソードを交え、様々な話をしていいただいたのだが、その五つをまとめると、次のようなものになった。

一つ目は、異なる意見に対する態度
知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす。
 
二つ目は、自分の知らないことに対する態度
知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうする。そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。その結果、それを隠し学ばない。
 
三つ目は、人に物を教えるときの態度
知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている。
 
四つ目は、知識に関する態度
知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する。
 
五つ目は、人を批判するときの態度
知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。
 
「知的である」というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。
(http://blog.tinect.jp/?p=16095)
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 念仏者においての「愚」は、「痛み」であるとともに、「自由で柔軟な力」です。
 毎日つまらないことにこだわり、ついつい人の評価に一喜一憂する私。愚者になりたいものです。と言いながら、人から愚者と言われるとついムッとしてしまうのが私なんですね。■

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