会いたかった人(2015.6)
極重の悪人はただ仏を称すべし。我もまた彼の摂取の中に在れども、
煩悩眼を障えて見たてまつらわずといえども、
大悲倦きことなくして常に我を照らしたもう (正信偈)
インターネットで流れてきた訃報に、ええっ?と声をあげてしまいました。
「岡本茂樹氏(おかもと・しげき=立命館大産業社会学部教授、臨床教育学)二六日午後三時四三分、脳腫瘍のため兵庫県尼崎市(略)の自宅で死去、五六歳。(略)手紙に本心を書く心理療法などを通して、長期受刑者の更生支援に取り組んできた」
(二〇一五年六月二七日 京都新聞)
私が岡本氏を知ったのは、二〇一三年に出版された『反省させると犯罪者になります』(新潮社)でした。まさに眼から鱗。この本については以前このポピンズでも紹介しましたが、この数年間で出版されたどの仏教書よりも、浄土真宗の香りを私は感じたものです。昨年に出版された『凶悪犯罪者こそ更生します』(新潮新書)の内容と併せて、ぜひ東京の研修会においでいただきたいと企画を出し続けていたのですが、かないませんでした。ご病気だったとは。南無阿弥陀仏。
被害者としての加害者
改めて岡本氏の著書からその主張をご紹介させてください。
岡本氏は、日本で最も凶悪な犯罪を起こした受刑者が収容されている刑務所に通い、受刑者の更生に関わって来た方です。刑務所では従来は反省文を書かせるなど「起こしてしまったこと」を自覚させることが更生の第一と考えられてきました。しかし刑期を終えて出所しても再犯を重ねてしまう者たちの姿を見るにつけ、それではだめだと気づくのです。
「私たちは、問題行動を起こした者に対して、『相手や周囲の者の気持ちも考えろ』と言って叱責しがちですが、最初の段階では『なぜそんなことをしたのか、自分の内面を考えてみよう』と促すべきです。問題行動を起こしたときこそ、自分のことを考えるチャンスを与えるべきです。周囲の迷惑を考えさせて反省させる方法は、そのチャンスを奪います。それだけではありません。寂しさやストレスといった否定的感情が外に出ないと、その『しんどさ』はさらに抑圧されていき、最後に爆発、すなわち犯罪行為に至るのです」
「受刑者は、例外なく、不遇な環境のなかで育っています。(略)受刑者は、親(あるいは養育者)から『大切にされた経験』がほとんどありません。そういう意味では、彼らは確かに加害者ではありますが、『被害者』の側面も有しているのです」(『反省させるとー』より)
加害者は被害者でもある、といってもだから犯罪が許されるわけではありません。しかし、自分の「被害者性」を確かに実感して初めて、他者の「被害者性」を想像することができるというのはご理解いただけるのではないでしょうか。
「違った視点」と「他者の力」
受刑者には大きく分けて三つのタイプがあるそうです。「反省していない受刑者(圧倒的多数)」「反省しようと思っている受刑者(少数)」「深く反省している受刑者(少数)」。このうち「深く反省している受刑者」は更生が難しく、再犯の可能性が高いと岡本氏はいうのです。なぜならこのタイプは、自分を責めることが常習化してしまい、自己理解に進みません。社会に復帰しても、「自分は生きる価値がない」と誰かに助けを求めることもせず孤立化し、結果としてまた犯罪をおかしてしまうことにもなるとのこと。更生のためには、「違った視点」と「他者の力」が必須なのです。このことは、受刑者の更生にとどまらず、私たちが生きる上での基本であると私は思います。
場が必要
『反省させるとー』の巻末のメッセージを長くなりますが引用します。岡本氏の遺言と受け止めさせていただきます。
「人は皆、本当に弱い生き物です。弱いからこそ、人に頼らないと生きていけません。(略)受刑者にとって刑務所は、『ありのままの自分』を出しにくい場です。下手な出し方をすると、懲罰といって、規律違反とみなされてしまいます。しかし、自分に無理して強がって生きてきた受刑者にとって、今までの考え方や価値観を見直したうえで、『ありのままの自分』としての生き方を学び、人に頼っていく方法を身に付けないと容易に再犯ということになってしまいます。私は再犯しないための最大の条件は『人に頼ること』だと確信しています。そのためには、受刑者にとって、『ありのままの自分』を出せる『場』をつくっていくことは喫緊の課題と考えます。さらに言えば、『ありのままの自分』を出せる場は、刑務所だけではなく、学校や家庭にも確保されないといけません」
昨年来、流行りのことばともなった「ありのままの自分」。それを出すのは自分一人の力ではできないことです。他者の眼差し、承認の声掛けが必須なのです。浄土真宗で語られてきた阿弥陀仏の光、そして浄土という世界は、そのことを提示してきたのだと改めて知らされました。 |