虚妄にグルグル(2015.3)


われ無始より三界にめぐりて、虚妄輪のために回転せらる(教行信証)


 

 アメリカの女優、アンジェリーナ・ジョリー。アカデミー賞の受賞経験もあり、私生活ではブラッド・ピットのパートナー。慈善家としても数々の活動に携わっていることで有名です。
 映画監督でもある彼女の第二作目、『アンブロークン』の日本での公開見通しが現在まったくたっていません。

存在しない映画を批判する人たち

 原因は昨年6月の「週刊文春」にもとめられます。「勘違い女優が撮るトンデモ反日映画」というタイトルで、原作の中にあるという「何千人もの捕虜が(中略)人肉食の儀式的行為で生きたまま食べられた」という一節を引用し、「歴史をでっち上げるのだけはやめてほしい」と批判したのです。それに産経新聞も続き、あたかも映画の中にそういうシーンがあるかのように批判しました。これらはたちまちネット上で広がり、『アンブロークン』は「反日作品」とレッテルを貼られて攻撃されることとなります。
 しかし同作品が公開されたのは昨年末。記事が出た時点では誰も観ていないどころか、存在さえしていなかったのです。にもかかわらず作品の悪評がひとり歩きをしていきました。

事実であっても腹が立つ

 ストーリーを紹介します。時代は第二次世界大戦末期。主人公は、ベルリン五輪にアメリカ代表として出場し、5000m走で8位となった実在の人物ルイス・ザンペリーニ。戦時中に日本軍の捕虜となりますが、収容所で虐待を受けます。彼は戦後も長く憎しみに苛まれますが、敵を赦すことにより苦から解放されたのでした。尚、虐待した軍曹のモデルも実在し、その渡邊睦裕は、戦後にA級戦犯とされながら逃亡に成功し、晩年にはアメリカCBSのインタビューに応えて虐待の事実を認めています。
 つまりこの映画は事実に基づいた作品であり、困難に打ち勝った人間のドラマなのです。文春や産経が批判した人肉食シーンなどは、セリフ上でさえ登場しません。でっち上げの印象操作をしたのはマスコミの方で、それに乗せられたネットは、自分たちが勝手に作り上げた虚妄を相手に貼り付けて攻撃していたのです。
 アメリカで映画が公開されて以降は「でっち上げ」批判は少なくなったようです。しかし「反日映画」批判は根強く続いています。日本軍が捕虜を虐待したという暗部を活写するのは、悪意でしかないという感情からです。今や、自分にとって見たくない面の指摘は、たとえ事実に即したものであっても敵視する空気が出来てしまっているようです。私はこれを非常に危険な傾向と思います。

自主規制という自縄自縛

 見たくないものから目を背けて、自分たちの美しさを誇りたがり、それに否を称える者には「自虐的」と批判する心性。私はそれを、美しいとはとても思えませんし、必ずしも、その心性が広く共有されているとも思いません。しかし、気になるのは、「そういう心性が蔓延しているのではないかと感じている人』はかなり増えているのではないかということです。それによって行われるのが「自粛」と「自主規制」です。
 『アンブロークン』の上映予定がない理由のひとつには、配給会社に「反日と攻撃されるかもしれない」という恐怖ゆえの自粛があると見られます。私にはそれもまた、虚妄の懸念ではないかと思えます。たしかにネット上で上映反対の声は広がりましたが、朝日新聞によりますと、配給会社の東宝東和へ直接反対の電話があったのはわずか数本とのこと。同社の取締役が「リスクは小さくない。いざという時に矢面に立つのは劇場。簡単に踏み切れない」と心配するのも分からないではないのですが・・・。

虚妄の実体化に手を貸すな

 親鸞聖人は自分たちの日々を「虚妄輪のために回転せらる」(『教行信証』より)と表現されました。虚妄。実際には存在しない幻を自分で作り上げ、それに対して怯え、あるいは怒り、あるいは無力感を抱く。その限りない連続運動の中で私たちは疲弊しながら永遠に争いあっているのではないか、というお諭しです。
 週刊文春や産経新聞や読売新聞、そして最近でも月刊誌『VOICE』が、観てもいない映画の内容を自分たちで作り上げて攻撃したのは、まさに虚妄のばら撒きでした。自分たち自身が踊らされていたとも見えます。
 それ以上に気をつけたいのは、それらを「今の主流の考え」と考えてしまいそうな風潮です。それも虚妄のひとつだと思うのです。それに過剰に配慮し、萎縮し、自粛し、自己規制することは、彼らが作った虚妄を実体化してしまう手助けをすることに他なりません。
 自分が怖れ、あるいは怯え、あるいは敵視しているのは、もしかしたら自分たちが作り上げた虚妄かもしれないと振り返る癖は常に必要と思います。■

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