男たちよ!(2014.6)


  「終活」という言葉がすっかり定着しました。「人生の終わりのための活動」を言います。自身の最期を迎えるにあたり、いろいろな整理や準備をしておこうというもので、その範囲は物心両面にわたります。
 その中で次第に広まってきた(特に中高年男性からの)「葬式不要論」。私は何か釈然としないものを感じていたのですが、それについて私の知人が先日Facebookに載せた文章が胸に染みて染みて。皆さまと共有いたしたく全文を転載します。もちろん男性だけでなく、女性にも。         (住職)

 先日、同年代のKさんとお話しをしていて腑に落ちたことがいくつかあった。一般の人の目線での死生観や宗教観がである。
「死んだ人間に金を掛ける必要は無い、おれの葬式なんてやらなくていい、骨も適当に捨ててくれ」
そのような親世代の男達の心情を、言葉通りに受け取るんじゃないと彼は言う。そこには遠慮や自信の無さが見え隠れはしまいか?と。
 私も男の端くれである。何となく分る気もするのだ。
 死んだ人間は用を成さない。
 この言葉の裏には、社会的な役割としてしか生きて来なかった自分への焦りと諦めが見えはしまいか。社会的な評価の中で生きて来た人達にとって、その積み重ねてきた鎧を脱ぎ捨てることはとても無防備な状態なのだ。
 困難な世を生きる為に被った鎧が、いつしか自分自身のように振る舞い、一人歩きする。やがて死を迎え、その鎧を降ろす時が来る。
 しかし、丸裸になった自分は実に弱く脆いものであり、その姿は痛々しくもある。
 親父達はそこで剥き出しになる自分の姿を想像できないのである。いや、したくないのだ。
 死んでしまえば、言い訳もできないし、虚勢も張れまい。自分の死後、家族や世間がどんな評価を下すのか気が気でならない。
 社会的な役割(鎧)を果たしているうちは、皆がそちらの方を見ていてくれる。しかし、社会的な役割を失ってしまった(死)後の自分は何も残らないのではないか?
 お葬式はそれが曝される場でもある。
 Kさんは、父親をかけがえの無いものと感じている。それは社会的に価値がある人間であるとか無いとか、偉業を成し遂げたとかしないとか、そういうものを超えた存在としてである。
 しかし、それを生前の父に伝えることは照れくさいし、父もそのような会話を否定するはずだと思っている。
 そのような関係に於いて葬式を語る時、父が子に「葬式不要」と宣言するのは何となく納得できる。この物言いはある種の遠慮かもしれないし、照れ隠しであるかもしれない。
「自分の葬式は立派にやってくれ」などと堂々と息子に言える男などそうざらにいるまい。
 彼の父の「葬式不要」発言の裏にも、面と向かって本音を語ることの出来ない男ならではの複雑な感情を読み取ることが出来ないだろうか。
 そして父と息子の複雑な感情表現と遠慮は実に日本人的でもある。
 だから私は彼にこう提案した。「『あなたの葬式は立派に俺が出すから後のことは心配すんな』と言い返してみれば?」と。
 これは親父からすれば涙が出るほど嬉しいセリフなのかもしれないぞ。
 勿論、Kさんにもその覚悟がある。
 とにかく生前にしっかりと父との「その後」のスタンスをしっかりと宣言すれば良いではないか。
 そのぶっきらぼうな物言いにお父さんはすべての思いを読み取るであろう。
 で、今朝の新聞の雑誌の記事…
「私のことは忘れて下さい」ですって。
 どうぞ先回りしなくても、遺された人の心が判断しますから。
「何も残さない」…。
 そもそも何か残せるものがあるとでも?
 また「0葬」か…
 「何も残さない」とは、何も見ていない証拠ではないか。人間の本質が財産や地位や名誉や形のあるものだけだというのか。
 それならば、あなたも人間をそのような社会的な価値基準でしか見ていないのか?
 なるほどそのような価値観ばかりがまかり通れば、あなたの子や孫は益々生き辛い世の中で苦しむであろう。
 あなたの子どもの世代は、世俗的な価値観の中で身動き取れなくなっているではないか。
空気を読んで窮屈な鎧を纏うか、思いっきり身体に合わない鎧を着て虚勢を張るか。
 それに耐えきれず、鎧を外してしまえば生きて行けない。そう、社会の中で価値の無い人間は、生きて行くのもおこがましいのだ…と。そして、堕ちて行くのは奈落の底…。その先のセーフティネットがないのだ。
 人は社会的な役割を終えても、失っても、その存在そのものは尊いものだ。
 死んでもそれは残るのだ。いや、死んだからそれがはっきりと見えるのだ。
 社会のあり方がそれを認めなくても、世間様が嗤い蔑もうが、宗教者は絶対にそこは譲らない。
 何よりも、それを親が子に示さなくてどうするというのだ。
 親父たちは、鎧を脱いだ後に「何も残さない」生き方を積極的に目指すかのように見せつつも、実は鎧の下の自分を磨くことをせずに鎧ばかりを磨いて来た人生を虚無に感じているのではないか?
 そんな鎧ばかりを気にしている親父に刃向ってやろうではないか。
「あなたのことを忘れることなど出来ないし、何も残さないなどとは言わせない。だって、私が死んだら私の事を忘れるの?何も残って欲しくないの?自分勝手なことばかり言ってるんじゃないわよ」とね。
 そんなこと言われた親父だってまんざらではないはずだ。
 親父達よ。残念ながらあなたが「残さない」と思っても、残るものがある。少なくとも、後悔やら喪失感などはしっかりと残る。いや、「何も残さない」と宣言したことによってそれらは更に残る。
 さあ、この始末をどうするつもりか。
 それよりも、鎧を失っても尚残るものこそを話し合っておくべきではないか。
 愛する人が死んでも尚生き続けなければならない人の為に。
 あなたが残した言葉や思いが、遺された人の人生に虚無感を生じさせることもあれば、セイフティネットとなることもあるのだから。
(平塚 浄土宗浄泉寺 住職 吉田健一)■

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