今の話(2014.3)


わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。(歎異抄)


 映画『ハンナ・アーレント』。
 政治哲学者、ハンナ・アーレントのひとつのエピソードを中心に描いたこの作品の上映が始まったのは昨年秋に東京・神保町の岩波ホール。それ以来、映画館は変えながらも途切れることなく上映が続き、今も全国で観ることができるほどのロングランとなりました。近年では異例のこと。
「誰からも敬愛される高名な哲学者から一転、世界中から激しいバッシングを浴びた女性がいる。彼女の名はハンナ・アーレント。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人。
 一九六〇年代初頭、何百人ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンで逮捕された。アーレントは、イスラエルで行われた歴史的裁判に立ちあい、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表、その衝撃的な内容に世論は揺れる・・・」(公式ウェブサイトより)

  彼の悪は〈凡庸〉

 アイヒマンは当時の世界にあって、極悪人以外の何者でもありませんでした。ユダヤ人大量虐殺の責任者として、ヒトラーの死後15年後に捕えられたアイヒマンを当時の人びとは、深い憎しみとともに、生けるモンスターを見物するという興味をもって裁判に注目したのです。
 アーレント自身も当初はそのような思いで裁判所に向ったのかもしれません。しかし、眼前に立ったアイヒマンの姿、そしてその証言を聞くにつけ、アーレントの判断は大きな修正を余儀なくされます。アーレントは、そのことを雑誌のレポートに記します。
「アイヒマンはモンスターではなく、平凡な、ちっぽけな、小心者の一人の役人でしかなかった。彼が行ったことは非道なことには違いない。しかしそれは彼以外の誰もが行いかねないことだ。彼の悪はあまりに〈凡庸〉だった」
 さらにアーレントは裁判自体に対しても、イスラエルに裁判権はあるのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したことの正当性はあるのか、と異議を称えました。そのことによってアーレントは、極悪人であるアイヒマンを擁護する噴飯者と全世界から攻撃を受けることとなるのです。
 中でも、ユダヤ人社会からの反発は激烈なものでした。アーレント自身もユダヤ人であり、強制収容所での経験もあります。にもかかわらず、古くからの友人や知人が彼女を裏切り者として断絶しました。それは、アーレントがアイヒマンを〈凡庸〉と評したこともですがそれ以上に、アーレントがユダヤ人の「絶対的被害者性」を否定したとユダヤ社会は受け取ったからです。
 アーレントは同じレポートの中で、ホロコーストの実行の過程では、ナチスに協力したユダヤ人がいたと指摘しました。彼らがノーと言えば、防げた被害もあったはずだと。それがユダヤ社会の逆鱗にふれたのです。自分たちの被害者性への冒涜だと。

  考え抜くこと

 攻撃はアーレントが勤める大学に及び、大学当局は彼女に辞職を求めます。しかし彼女はそれに従わず、学生たちの前でこう講義をします。
「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」「アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。 その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。思考の嵐≠ェもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」

  今の話

 五〇年も前の出来事が、今の日本にまるまる重なります。個人ではおかしいと思っていることも、空気の中では何も言えなくなってしまい、そのうちに、全員が内心では違うなと思っている方向に、全員の「総意」で進んでしまうということもありえます。ひとりひとりは善良で悪意がまったくないにもかかわらず、ただ「思考停止」をしただけで、破滅的な結果をももらたすこともありえます。ありえるというより、現実にそれらを体験しつつある私たちではないでしょうか。
 また、自己の「絶対的被害者意識」もまた私たちを惑わせます。「被害者意識」は麻薬のようです。うっかりするとすぐに絶対性を帯びながら、自らを縛っていきます。「被害者」ではなく「当事者」として事実に相対する。そこからこそ事態への解明と理解が拓かれ、新たな悲劇への抑止に繋がると強く思うのです。■

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