反省させるな(2013.6)


 自力の心を捨つというは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、自らが身を善しと思う心をすて、身をたのまず、悪しき心を省みず(唯信抄文意)

 何か悪いことをした人に対して、あなたはどのような態度を求めますか。まず謝罪、そして反省でしょうか。
 『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)という刺激的なタイトルの著者、岡本茂樹氏は、実際に刑務所で受刑者の更生に携わる中で、こう確信するに至りました。「反省させてはいけない。犯罪者に即座に『反省』を求めると、彼らは『世間向けの偽善』ばかりを身に付けてしまう。犯罪者を本当に反省に導くのならば、まずは『被害者の心情を考えさせない』『反省は求めない』『加害者の視点で考えさせる』方が、実はずっと効果的なのである」。

「立派」な反省の裏に

 次にあげるのは、万引き事件を起こした高二女子が書いた反省文です。
「このたび私は、万引きという、大変恥ずかしいことをしてしまいました。謝って許されることではありません。謹慎している間は、自分自身をしっかりと見つめ、自分がいかに甘く、駄目な人間であったのかがよく分かりました。私を大切に育ててくれている両親だけでなく、暖かく見守ってくださっている先生方の信頼を大きく裏切ることになり、心から反省しています。今回、謹慎という処分を受けましたが、それによって自分のことを考える時間を与えていただき、今は感謝しています。甘かった自分を改め、これからはしっかりした学生生活を送っていくことを心に誓います。大変ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」(同書より)
 お読みになってどんな感想をもたれたでしょうか。一般的には、立派な反省文だとお感じになる方が多いと思います。一方、刑務所の受刑者の多くは、上辺だけの嘘の文章だと感じるそうです。この類の文章は自身がさんざん書かされてきた経験に基づいてです。
 岡本氏は先の反省文を読んで、書いた子のことが心配になったとのこと。「あるべき姿」の下に抑圧された、そしてこれからもプレッシャーを受け続ける姿が見えてしまうからです。

反省は最後の最後

 犯罪などの問題行動は、理由なしに起こされることはありません。いえ、問題行動に限らず、人間のあらゆる行動には、当人なりの合理的かつ正当な理由があるのです。そしてそれは本人自身も気づいていない(気づきたくない)ことが少なくありません。
「反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。言い換えれば、反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです」(同書より)
 岡本氏は、受刑者に対したときにまず、受刑者自身が持っている恨みや怒りなどの否定的感情を表にださせるように導きます。受刑者たちは、恨みや怒りを表に出すことは無反省の現れと受け取られることを知っており、刑務所内ではそれらを極力、胸の内に収めようとします。しかしそれは結果的に恨みや怒りの温存と増幅に繋がってしまいます。そこからは真の反省は生まれません。まず、自分が抱えている不満・恨み・怒り・哀しみ・歎きなどの否定的感情を語らせるのです。「期待されている自分」の陰に押し込められたそれらを解放し、自分の内面と向き合い、自分の心の痛みに気づくことができて初めて、人は他人の痛みに思いを馳せることができるのです。

反省する前に

 親鸞聖人が書かれた『唯信抄文意』という書物に「自力の心を捨つというは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、自らが身を善しと思う心をすて、身をたのまず、悪しき心を省みず」という一文があります。これは、浄土真宗を学び始めた頃の私を何よりも(「善人なおもて往生をとぐ」以上に!)撃ったことばでした。特に「悪しき心を省みず」。自力の心を捨てる、すなわち仏の呼び声に身をまかせるということは、悪しき心を省みない、つまり反省しないということだ、ということば。仏教とは我が身を反省していく営みだとなんとなく思っていた私をひっくり返しました。
 しかし言われてみて納得しました。私たちは、反省が好きです。しくじってはすぐ反省し、しかしまたすぐに同じことを繰り返してしまうのが私たちです。
 反省というのは一見すると我が身の悪や罪を深く悔いている行為であり、それをすることが倫理的に正しいことと思われますが、実際に反省している自分を思い返してみると、それは自分を免罪するための手続きでしかないことが多いように思います。自分は反省している、だからもう許されるのだ。自分は反省しているのだからもういいじゃないか。自分は反省できるいい人なのだ。そして自分が為したことを忘れ、また同じことを繰り返す。「自己満足にすぎない」ことは少なくありません。
 反省する前に、まず、自分の行為をしっかりと見つめ受け止める、そして忘れない。自分勝手な「思い」に逃げない。それが親鸞聖人の言う「自力を捨てる」ということと私は受け止めています。■

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