大切な習慣(2013.3)


 光触かふるものはみな、有無をはなるとのべたまふ(教行信証)

 子どもの頃、親からこのようなことを教わった記憶は、どなたもお持ちだと思います。
・食事の時はよく噛みましょう。
・好き嫌いをしないで何でも食べましょう。
・道を渡る前には左右をよく確認しましょう。
・道に急に飛び出してはいけません。
 これら、食事の仕方や道の渡り方を、大切な習慣として親や先生から教えられたことがないという人はおそらく一人もいないのではないでしょうか。
 では、新聞の読み方やインターネットの記事の受け取り方を親や先生から教わったという方は?こちらはほとんどいないのではないかと思います。
 情報が氾濫している社会。押し寄せるニュースや噂話に対応し、処理していくのは、現代においては食事をしたり街を歩いたりすることと同じくらい不可欠な行動です。そこには身につけなければならない基本的な技術が求められます。特に子どもに対して、親や先生が教えるべきことです。事実、最近の学校では情報処理技術(メディアリテラシー)を教えることが必須になりつつあります。

もう教わっている

 では子どもの時にメディアリテラシーを教わらないできた大人はどうしたらいいでしょう。メディアリテラシーなどと名付けられると難しそうですが心配はいりません。誰もがすでに子どものときから習慣づけられているそのままを思い出せばいいんですよ、とジャーナリストの下村健一さんに教わりました。
 下村さんは、今の社会に氾濫する情報への接し方として、よく噛む、好き嫌いしない、左右をよく見る、飛び出さない、の4点はそのまま応用できるとおっしゃいます。
1、よく噛む。早のみ込みしない。
 これは、話の途中まで聞いただけで分かったつもりにならない、早合点しない、ということに通じます。
 特に日本語の話は、最後まで聞かないと、それが肯定文なのか否定文なのか判明しないことが少なくありません。また、最後まで聞いたとしても、それを丸飲み込みしてしまっては、消化不良になって胃もたれをおこすだけになってしまいます。
2、好き嫌いしない。
 自分に都合の良い情報だけ集めて、都合の悪い情報は捨てるなんてやりがちですが、それはダメ。
 これは特に非常時に顕著なことです。震災や原発事故発生当時を思いだしてください。何が本当か分からない中では、人は無意識に、こうなのではないかとの想像に合致する情報に注目し、それを頼りにしがちです。しかし偏った情報はそれ自体の価値も半減させてしまいます。
3、左右をよく見る。
 右を見る。そして左を見る。そしてまた右を見る。全体を見回すことが大事です。
 好き嫌いはしていなくても、1点だけを見ていたら危険です。視野の外から何かが飛んでくるかもしれません。視野から外れているものがあることも想像しましょう。

結論を急ぐな

そして
4、急に飛び出さない。
 慌てない。結論を急がない。
 忙しい私たちは、とりあえず結論を知りたがります。そして、結論を得てしまうとそこから関心を失います。しかしそれは危険です。自分も他者も傷つける結果を生みがちです。
 毎日いろいろな事件が報道されます。そこでは逮捕された容疑者の名前が流れます。しかし容疑者とは「疑いをかけられた人」を言うのであって、イコール犯人ではありません。
 昨年、パソコン遠隔操作事件が起きました。何者かがネットを通し他人のパソコンを操作して、犯罪予告を行なった事件です。当初逮捕されたのは四人。一人は起訴、一人は未成年者のため保護観察処分となります。いずれも後に、真犯人と自称する人物からのメールが届いたために冤罪であることが分かり、処分取り消しとなりました。
 その真犯人とされる容疑者が、今日現在まだ取り調べを受けています。実名も姿も報道されていますが、当人は容疑を認めておらず、直接証拠もないと伝えられています。重ねての冤罪の可能性が残っています。
 容疑者の扱いには慎重でありたいと思います。この社会においては、一旦容疑者とされると、容疑が晴れて犯人ではなかったとされても、以前の白には戻れません。「疑われたからには、黒ではないにしても、何かはあったんだろう」と見られるのが現実です。火のないところに煙は立たないと。しかし何もなくても煙が立つのが現代です。その事実を深く肝に銘じたいと思います。

確かとは
 
 結論を急がないことが大切、という指摘に対して、それでは何も動けないではないか、と反論されることがあります。結論を急がないということは、結論が出るまで動くなと言っているわけではありません。いろいろな可能性を考えながら動こうと言っているのです。一旦動き出すと方向を変えるのが難しいのが私たちです。しかし自分が誤っているかもしれないという思いとともに動くことは、修正も方向転換もしやすくなります。一見あやふやなようで、実は確かな足取りなのです。
 これらは仏教の教えにまるまる重なります。部分に囚われず、一時の感情にも囚われないことの大切さを思うと、いつもいろいろなものに囚われている自分の姿が見えてきます。いかがでしょう、よく噛んで、好き嫌いせず、左右をよく見て、飛び出さない。日々の中で実践してみませんか。■

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