意地でも「被害者」にならない(2012.10)


 今時の道俗、己が分を思量せよ(教行信証)

 この春から、学校でのいじめ問題がたびたび報道されています。
 報道からうかがえる学校側や教育委員会の対応には、たしかに、危機管理能力や問題解決能力や教育能力に疑問を持たざるをえないケースも見受けられるようです。
 その中で、私はひとつの記事にひっかかりを覚えました。ある中学校で起きた悪質ないじめ事件について、学校で開かれた説明会に出席した保護者の発言を報じたものです。
「事件からほどなくして、その生徒たちが所属する学年では保護者説明会が行われ、そこで校長からは信じられない説明があったという。『〈加害者〉と〈被害者〉という言葉は使わず、一括りにして、〈関係者〉と呼んでいました。しかも、停学の理由については喧嘩両成敗という説明でした』(保護者)」※『女性セブン』九月二〇日号掲載
 説明会で校長が「被害者」「加害者」という言葉を使わずに「関係者」と呼んでいたことが、保護者の不信をつのらせたとのこと。校長はいじめの事件性を認識していないか、いじめを隠蔽したい意図が校長にはあると、この保護者は受け取り、編集部もそれに同意している記事です。
 校長の真意は分かりません。事件をできるだけ小さいものにしたいという意向はおそらくあったでしょう。しかし、「被害者」「加害者」という言葉を使わずに両者ともに「関係者」と呼んだこと自体は、批難されることではありません。いや、正しかったと思うのです。

 当事者として

 ある事件が起きたときに、「被害者」と「加害者」が生まれる。それは自明のこととされています。しかし私はそれに異を唱えます。そこに生まれるのは正確には、事件の「当事者」です。喧嘩であれば、殴った当事者と殴られた当事者、暴言を吐いた当事者と吐かれた当事者。当時者が誰であるかが確定できれば、当事者どうしが、その事件にいかに、どの程度関わっているかを検証することが後々にも可能になります。
 それが「被害者」「加害者」と呼んだとたん、両者の関係は固定化します。絶対化さえします。そして次第に断絶します。それにより、事件事象の全体像が見えにくくなってしまう結果を呼んでしまうことにもなります。
 軽度の交通事故であれば、私たちは当事者を「被害者」「加害者」と呼ぶことはありません。それぞれの過失の度合を勘案して補償額が算定されます。おそらく、交通事故の当事者は誰もが、被害者意識を持っているはずです。相手があそこにいなければ事故はなかったのに、と。でもそれを被害加害関係に移行させないのは、生きる智慧とさえ私には見えます。
 それを、一方に全く過失がない場合でも応用したいのです。一方的なもらい事故でも、通り魔事件に遭遇しても、被害者ではなく、事故事件の当事者として受け止める。被害感情を持つこと自体は避けられませんが、それと「被害者」と自称することは別です。当事者として生きることと被害者として生きることは、その後の歩む先さえ変えてしまいます。

 「被害者」度の競い合い

 私が「被害者」「加害者」という名付けを避けたいと思うのは、それが関係の固定化・絶対化につながることを危惧してのことですが、それとともに、「被害者意識」がいのちを傷つける結果を生みやすいからです。他のいのちも。自分のいのちも。
「あらゆる戦争は正義と正義の闘いだ」と言った方がいます。私は必ずしもそうではないと思っています。「正義」なんて高潔なものを掲げて闘うことはそれほど容易ではありません。しかし「被害者」と自認することは難しいことではありません。そして、自分が「被害者」であると自認するだけである種の力が沸き出されることも多いのが人間のようです。

 事実に基づけ

 親鸞聖人の師の法然聖人は、九歳の時に父を殺害されます。いまわの際、父は幼い息子に復讐を戒めます。それが仏門に入るきっかけとなったと伝えられます。
 その法然聖人とともに、時の幕府からの弾圧を受けたのが親鸞聖人でした。兄弟弟子は死罪、親鸞聖人と法然聖人はそれぞれ流罪となりますが、両聖人の著述には、被害者意識が感じられるものは一篇もありません。
 くれぐれも誤解しないでください。何をされても許せとか、甘受せよと言っているのではまったくありません。親鸞聖人も弾圧に対して幕府への激烈な抗議文を残しています。ただしそれは当事者としてです。
 繰り返します。当事者として事にあたるのと、被害者として事にあたるのはまったく違うのです。事実に基づくか、感情に基づくか。感情に基づいた眼を通して見える世界は、少なからず歪んでいます。それは誰より、自分自身を傷つけます。
 どうか被害者と自称しないでください。あなたは当事者です。いのちの当事者です。■

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