スポットライトの副作用(2012.3)


 一切の悪行は邪見なり(教行信証)

 東日本大震災から一年以上が経ち、やっと、福島第一原発であの時に何があったのかの検証が当事者の証言により進んでいます。
 その先駆けとして、この三月、福島原発事故独立検証委員会による『調査・検証報告書』が公表されました。前科学技術振興機構理事長や弁護士・大学教授が委員となって、事故対応の当事者へのインタビューなどにより事故の全体像を明らかにしようとしたもので、公表されるやいなや、マスコミ各社はこれを大きく報じましたのでご記憶の方は多いことと思います。

全体を読んでみると

 報告書には次の記述があります。「菅首相は自分の携帯電話で『必要なバッテリーの大きさは?縦横何メートル?重さは?ヘリコプターで運べるのか?』などと担当者に直接質問して熱心にメモをとった。同席者の一人は『首相がそんな細かいことを聞くというのは、国としてどうなのかとぞっとした』と述べている」
 マスコミ各社はテレビも新聞もここを大きく取り上げて、「菅前首相ら政府首脳による現場への介入が、無用の混乱と危険の拡大を招いた可能性がある」(読売新聞)などと報じました。それは、スタンドプレーに走った菅氏こそが原発事故対応を遅らせた張本人であり、それを糾したことがこの報告書の柱であるとの印象さえ与えるものでした。
 しかし報告書を実際に読んでみると、こうも記されています。「菅首相の行動力と決断力が頼りになったと評価する関係者もいる」「菅首相の性格は、緊急事態における重大なリスクやトレードオフを伴う決断を下す上で効果的だった」。報告書全体としては菅氏を非難したものではありません。

ぞっとしたのは

 そして先の「ぞっとした」発言。この主は内閣審議官の下村健一氏です。下村氏はツイッターでその真意をこう説明しています。「私は、そんな事まで自分でする菅直人に対し『ぞっとした』のではない。そんな事まで一国の総理がやらざるを得ないほど、この事態下に地蔵のように動かない居合わせた技術系トップ達の有様に、『国としてどうなのかとぞっとした』 」、さらに「実際、『これどうなってるの』と総理から何か質問されても、全く明確に答えられず目を逸らす首脳陣。『判らないなら調べて』と指示されても、『はい…』と 返事するだけで部下に電話もせず固まったまま、という光景を何度も見た。これが日本の原子力のトップ達の姿か、と戦慄した」と。
 下村氏は本職はジャーナリストです。以前からマスコミ報道を鵜呑みにしてしまう危険性について丁寧に指摘をしている方ですが、自身の著書『マスコミは何を伝えないか』(岩波書店)の中で、「スポットライトの副作用」に言及しています。マスコミはその習性として、ふだんと変わらないものや何もないところは報じません。常に目新しいものや珍しいものを追い求め、それを集中的に報じがちです。すると、全体の中ではほんのわずかだった事象があたかも大きな出来事のように伝わってしまうこととなります。今回の件でも、当時の首相が声を荒げていたことも、それに関して「ぞっとした」という思いをした者がいたことも事実ですが、それだけに注目することで結果的に全体の姿を歪めてしまいました。もちろん悪意なく。善意と正義によって。

一切の悪行は邪見

 仏教には有名な例え話があります。暗闇に大勢の人が集まって、同じひとつの何かを触っています。それをある人は太い柱のようだと言い、ある人はロープのようだと言い、ある人は絨毯が垂れ下がっていると言い、ある人は太くて長いホースが垂れ下がっていると言います。まるでバラバラですが、実は同じ象を触っていたのでした。柱は足、ロープは尻尾、絨毯は耳、ホースは鼻ですね。それぞれの情報をうまく配置できれば象にたどりつけるのですが、各人が自分の情報にこだわってしまうと、世界は珍妙に姿を変えます。
 親鸞聖人は「一切の悪行は邪見なり。一切悪行の因無量なりといへども、もし邪見を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ」とお示しです。ここでの「邪見」が即ち、わが眼わが思いだけが正しいと囚われることです。悪い行いに向わせる原因はいろいろあるけれども、邪見があればそれだけで悪が完成するとまでおっしゃっているのです。
 一点だけを見て、あるいは伝聞だけで、全体を判った気になってしまうことを、私たちは日常的に行ないがちです。しかしそれは世界を偏って見てしまうことにつながります。差別はそこから生まれます。私たちに届く念仏は、自分の眼が一面的に固定していないか、という振り返りを呼びかけている声なのです。■

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